2012年10月31日水曜日

天皇家系譜の謎を解く掖邪狗(ク)と掖邪拘(カウ)



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:5頁

 《天皇家系譜の謎を解く掖邪狗(ク)と掖邪拘(カウ)
 「天皇家系譜の謎を解く掖邪狗(ク)と掖邪拘(カウ)

 ここで掖邪狗を

 『日本書紀』が八坂と書くものを、

 『古事記』が八尺と書くのはなぜか、

 その理由もご説明しておこう。

 それは『記・紀』の編集者が、どちらも『倭人章』を持っていたことと、

 その種類が違っていたことを、二重に証明する証拠があるからなのである。

 日本で一般に使われている

 『汲古閣(きゅうこかく)・魏書倭人章』に

 「掖邪狗」と書かれている「狗」の字は、

 『宋本・魏書倭人章』や

 『紹興(しょうこう)版本・魏書倭人章』では「拘」の字になっている。

 この2つの文字は、少し下手に書くと、

 どちらだかわからないはど似ているが、

 その発音は「狗はク」だが、

 「拘はカウ」と発音したから、

 掖邪狗は「ヤジャク」で八尺にぴったり、

 掖邪拘は「ヤジャカウ」で「ヤジャカ=ヤザカ=八坂+ウ=王」だから、

 八坂王と当て字したために、

 『古事記』と『日本書紀』とで、

 当て字が違ったのだと真相がわかる。

 すると漢字で書いた天皇家の系譜は無くて、

 双方の編集者はともに見ていないのである。

 彼らは2種類の『魏書倭人章』で、

 この人物の存在を知って、それに上記の当て字をした。

 そのとき(=8世紀)になって初めて漢字で書いた

 『天皇家の系譜』が出来上っためである。

 八坂と八尺のどちらが正しいなどとはいえない。

 しかし

 八坂神社とそれから生まれた八幡社とが全国的に分布しているから、
 
 史学では八坂を使用するほうが便利だ。

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2012年10月30日火曜日

景行天皇が体験した肉親相剋



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:4頁

 《景行天皇が体験した肉親相剋
 「景行天皇が体験した肉親相剋

 それなら正しい系譜は、もう復元できないのだろうか?。

 『魏書倭人章』と『日本書紀』を総合すると、

 景行天皇は

 「載斯烏越 tsag sieg o giwat ターシオジワッ=大足忍代王=(大隅語)」と

 記録されている。

 彼は正始8年(247)に帯方に行ったから、

 正始4年(243)の

 卑弥呼の使者・掖邪狗=八尺入日子=八坂入彦とは、

 同時存在で、

 ともに皇族なのだから、本来はごく親しい人たちであり、

 互いに知らないはずのない間柄なのである。

 では何故?、

 『記・紀』は他人のような書き方をして、

 まるで弱者から娘を奪い取ったかのような記事になっているのか?。

 それは卑弥呼死後の掖邪狗の行動をみると理由がわかる。

 彼は壹與女王の命を受けて、

 帯方郡使・張政を帯方郡まで送り届けている。

 掖邪狗は明らかに位宮に加担したから、

 卑弥呼旧政権当時のままの重職にとどまっている。

 ところが

 景行天皇は政権が邪馬壹国に変わると名も出ない。

 敗者として姿を消したと見て、

 そして『記・紀』の景行天皇史を読んでみると、

 天皇は九州各地を、

 熊襲を始めとする敵と戦いながら転戦する。

 熊は高国(クマ)で狗国(クマ)、狗奴国の別名だから、

 彼は掖邪狗と違って

 邪馬壹国には屈服せず抵抗し続けたということになる。

 そしてついに要衝・宮之城を陥して

 八坂入媛を妻にしたというのが、

 その結婚の真相だったとわかる。

 こうして復元は可能なのだ。

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2012年10月29日月曜日

崇神と景行は他人と『記・紀』が証言



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:3頁

 《崇神と景行は他人と『記・紀』が証言
 「崇神と景行は他人と『記・紀』が証言

 内藤虎次郎氏は伊声耆掖邪狗を一人の名だと決めたが、

 一人か二人か?はっきり見極めてみよう。

 『記・紀』の百襲姫姉弟の系譜には、

 「掖邪狗」という名に合う名乗りは見当たらなかったから他の系譜を調べて見ると、

 「ヤジャク」にぴったりの名乗りがみつかる。

 『古事記』「景行天皇」の天皇の妃の一人に、

 八尺入日子命の女(むすめ)八坂之入日売命という名乗りの姫がいる。

 その父の「八尺」はまさに「ヤジャク」にぴったりの名乗りだ。

 『日本書紀』をみると、

 この父は八坂入彦皇子で、

 媛は「美濃」の住人になっているが、

 その当時の「ミノ」は旁国の弥奴国しかないから宮之城で、

 これまで見てきたことと、よく一致する。

 だが『日本書紀』の編集者は私たちのように真相を知らないから、

 弥奴をミノと読んで、

 単純に彼の知識内の8世紀の「美濃」に翻訳して記入してしまったのである。

 掖邪狗は皇子だった。

 それなら『記・紀』が崇神天皇と尾張大海(オオアマ)媛との子として記録する

 八坂入彦の命以外にない。

 『記・紀』はどちらも、

 景行天皇がこの人物をまるで知らないという書き方をしている。

 しかし

 『記・紀』系譜では

 崇神は景行の祖父だから八坂入媛は景行天皇の父・垂仁天皇の妹で、

 叔母なのである。

 『記・紀』自身がこんなふうに崇神と景行は祖父と孫ではなく

 「他人」だったと証言しているのを見落してはいけない。

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2012年10月28日日曜日

これまでのシステムの総括



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:34~37頁

 《これまでのシステムの総括
 「これまでのシステムの総括

 今でもよく「言語復原史学」とは、

 どういう学問か?と訊ねられる。

 しかし具体的な効果が証明されて初めて納得できるもので、

 座談中の短い時間に抽象的に説明しても理解できないと思い、

 いっもお座なりな返事しかできずにいた。

 本講座でも、

 例題の個々の対象をどう処理するかという、

 基礎的な技法の講義が先決で、

 一つの命題をあらゆる角度から徹底して

 追及するという段階に入るまでの準備期間が、

 予想以上に長くかかってしまったが、

 このあたりで本学がどれくらい凄い復元力をもっているか、

 ご覧に入れたくて、

 今回は可能な限り「伊声耆=吉備津彦」に集中して、

 卑弥呼政権敗北時の様相を浮き彫りにする試みをご覧戴くことにした。

 それでも限られた経済条件の枠に阻まれて、

 半ばを辛うじてクリアーできた程度にとどまったし、

 それさえも消化不良の部分が目立つが、

 過去の日本の古代史学と比較して戴けば、

 まずまずご満足のいく号にはなったと思う。

 一般向け出版社の出版物には、

 とうていこんな面倒な追及は並べていられないので、

 結論だけを羅列したものになり、

 独断と偏見に見えたと思うが、

 本学の著書には全て、

 本号にみるような徹底した史実の裏付けがあったのである。

 実地に応用して載く際の手引きとして、

 ご活用戴けるものとご期待申し上げている。

 「名乗り」と「地名」による

 言語復原のシステムを、手軽に応用できるように、

 これまで習得して戴いたものを体系づけ、

 総括しておくので、ご活用のほど。

 1 名乗りを構成する地名の捜査と発見と分類整理。(以下すべて記録、リストアップ)。

 2 その地名の語源、国籍、搬入者、分布などの研究。

 3 それらの地名の地理的な配置の理由の考察。

   それを記録、分類して整理保存する。

 4 その地名の発音と、歴史人物の「名乗り」との科学的な比較。

   地図、索引で整理。

 5 それらの、言語や方言の違いによる発音と当て字の差異、時代変化の研究と整理。

 6 その発音の、名乗りとの関係の分析。

   当て字が相違する理由の考察と確認。記録。

 7 その名乗りの発生した政治環境の分析と確定。

   事件の再考。

   名乗り継承の状況。

 8 以上を総合して、

   その地名と名乗りが何を表示しようとしたのかを確認する。

 9 それと文献が紀録・表現している歴史とを比較して、記録の不合理点を発見する。

 10 その不合理が、言語の時代変化や人々の変動なと、何によるものかを確認する。

 11 その不合理が、環境によるものでなければ、人為的なものとして筆者を検討する。

 12 筆者が特定できなくても、彼らと支配者などの置かれた立場、時代なとを分析する。

 13 それらから見えてきた理由を、補強できる証拠を、その文献記事から集める。

 14 同じものを他の文献からも集めて、分類整理し、何時でも取り出せるようにする。

 15 こうして整理済みの答えで、それぞれの人物像を「史実のもの」に復元する。

 16 それらの復元人物を正しい位置に戻して、実際にあつた歴史を再構築する。


 これで初めて「言語復原史学」の骨組みが出来上る。

 しかしそれに肉付けし、皮膚を着せ、植毛し、五官を備え、生命を吹き込んで、

 生きて活動するものに育て上げるまでには、

 まだ前途に以上の手続きによる他の文献の復元と、

 それとの合体。

 世界史の「言語復原史学化」完成と、

 それとの合体という

 「壮大な深淵(カオス)」が横たわっている。

 だが私たちはすでに、

 それらを消化し尽くす可能性を身につけている。

 その1例が大学講義録16の伊声耆なのである。

 過去の邪馬台国畿内説論者はもちろん、

 他の地域説の論者にも、

 卑弥呼が邪馬壹国政権との戦いに敗れて

 「国譲り」をしたと書いた人は一人もいない。

 「彼女は確かに死んだけれど、

  大古墳(多分、箸墓)に丁重に葬られて邪馬台国は延々と続いた、

  それが奈良のヤマト朝廷なのだ」というのが、

 積極的、消極的の差はあるが、

 彼らの主張だからだ。

 彼らには、伊声耆や吉備津彦の名乗りも、何の役にも立たない。

 卑弥呼が大国主だとか、

 倭人が海老野から日向へ逃げたなどと想像もしない。

 これほど明瞭に揃った証拠群でさえ、

 まるでゴミ同然に捨てたまま捨てたことにさえ気づかずに、

 ただ呆然としていただけである。

 そんなものが本当に史学といえるかどうか、考えるまでもないと思う。

 史学に限らず、人類はまだ発展途上にある。

 完全なものなどどこにもない。

 私たちの言語復原史学もまだまだ不完全ではある。

 だが自説が完全だと思い上がって進歩が止まるようなことはない。

 なぜならそれが止まったとき、

 この史学は死んで名も残らないからである。

 だがこの体系は容易には死ねない。

 なぜなら、

 解明を待つ疑問は全世界に溢れているからである。

 私たちの技法はそれに応じて新しい頭脳組織を成長させて行く、

 個人は死ぬが体系はさらなる成長を続ける。

 あなたのお仕事も不滅に近い生命をもっているのである。

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2012年10月27日土曜日

陸行一月は卑弥呼らの知性の産物



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:33頁

 《陸行一月は卑弥呼らの知性の産物
 「陸行一月は卑弥呼らの知性の産物

 だが伊都国から隼人へ行くのに、

 どうして大変な登り坂が続く八代からの悪路を行って、

 無駄な苦労をする必要があったのか?。

 船で隼人まで直接行けるし、

 他にも幾らでも安楽に行けるコースがあるじゃないか。

 私は数十年前から講演や講義をするたぴに、

 こうした詰問を受け続けてきた。

 もう答をよくご存じの方も多いが、

 繰り返してお話ししておこう。

 理由は前記のとおり危機一髪の国際情勢に直面していたからなのだ。

 魏と友好条約を結び、官位を受けはしたものの、

 決して信頼して安心してはいられなかった。

 卑弥呼は大変な困難を冒して隼人に都を移したが、

 そこも本当は船で直行できるところだし、

 南九州の東西の海岸からの距離も短くて、

 魏の大軍が改めてくればひと堪りもない。

 それを魏人に知られないようにと、

 わざと最も不便で困難なコースを通らせて、

 「倭国は難攻不落だ」と

 魏人の侵略意欲を削(そ)ごうとしたのである。

 だが魏人が実際にそのコースを通って体験しなければ役に立たないから、

 説得して同行させた結果が冢の魏の尺度「歩」だったのだ。

 こうした現代人なみの高い知性の痕跡は、

 倭人がそんな道しか知らず、

 良い道も作れないような蛮人ではなかった証拠である。

 だが在来の史学は寓話である神話?の真意も酌めずに、

 ただ崇め奉って、

 世界に通用しない幼稚な解説で私たちと祖先を泥塗れにしてきた。

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2012年10月26日金曜日

「径百余歩」のもつ内容



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:32頁

 《「径百余歩」のもつ内容
 「「径百余歩」のもつ内容

 当時の中国の尺度名の「歩」は、

 古代の周では面積をあらわす名で、

 日本で今も使われている「坪」に当たる。

 『禮記』には

  「歩は本来は、周尺八尺平方だったものが、

   今では周尺六尺四寸平方になってしまった」という記事がある。

 周の1尺は多少の乱れはあるが約23cm。23x6.4=147cmで、

 1歩は約1.5m平方=畳半分ほどの面積である。

 これがやがて長さの単位にも使われるようになって行き、

 歩と書いてあっても、

 どちらなのか考証が必要だが、

 魏の時代の尺度は、

 後漢の孝章帝の時(C.E.75~88)、

 漢代で初めての改正があって、

 そのまま・使われていたもので、

 孝章帝の建初六年八月十五日造という銘文を彫った1尺の物差の実物

 (青銅製 23.8cmが残っていて、

 清代の『湖海集』という本に図入りで記録されている。

 他にも長さは1~2mmの差があるが同時代の遺品が複数ある。

 魏の尺は漢のものより少し長くなったという説もあるが、

 それであっても大した差はない。

 卑弥呼の墓の、経百余歩というその「径」を直径のこととすると、

 23.8x6.4、=151.8cmが1歩で、

 それに余歩がついているから直径151m+αの円墳だが、

 これは倭人里で直径3里にした企画に見える。

 経百余歩が今の「百余坪」式の面積表示なら50畳=25坪ほどの広さだ。

 また殊更に歩で表現したのは、

 魏人が自ら「歩いて」測量したんだ!という誇示でもある。

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2012年10月25日木曜日

魏人は卑弥呼の冢を見た



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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:31頁

 《魏人は卑弥呼の冢を見た
 「魏人は卑弥呼の冢を見た

 『魏書倭人章』の「陸行一月」の話がでたついでに、

 ここでお話しておく必要があると思うのは、

 二人の帯方郡使が共に伊都国で駐(とど)まって伊都以南へは行かなかったのに、

 卑弥呼の冢の大きさを「経百余歩」と、

 なぜ魏の尺度で表現できたのか?という疑問である。

 これも卑弥呼の死直後の事件をめぐる、

 大きな謎の1つだから、是非、片付けておきたい。

 他の部分では、

 帯方郡から狗邪韓国までの旅程さえも、

 すべて倭人里を使っているのに、

 この冢のサイズだけ、

 何故、わざわざ、魏の尺度で書いたのか?。

 どう考えても奇妙なのだ。

 答は、

 帯方郡の正使である梯儁と張政の二人は

 伊都国から南には行かなかったが、

 それは魏人は一人も隼人まで行かなかったということではない。

 高句麗が半ば滅び、

 倭人と同族の辰韓王・臣濆沽(シホコ)が、

 梯儁を派遣した太守・弓遵を殺した大紛争直後だ。

 今なら大使に当たる郡使が、

 供も連れずに一人で倭国へくるはずがない。

 最小限、護衛と通訳が必要だし、

 食事、洗濯、荷物担ぎと供の人数は膨れあがる。

 その中の荷物担ぎなど手すきの幾人かが、

 首都まで行ったのである。

 その時、

 張政は難升米に檄(げき)を渡して卑弥呼に善処を命じた。

 その告諭と檄は難升米自身が卑弥呼に直接話し、

 手渡さなければならない。

 その難升米について同行した魏人が

 八代から人吉~真幸を通って隼人まで行き、

 冢のサイズも自分で計ったのである。

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2012年10月24日水曜日

吉備津彦誕生の時間帯座標=忌瓮(いむべ)



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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:30頁

 《吉備津彦誕生の時間帯座標=忌瓮(いむべ)
 「吉備津彦誕生の時間帯座標=忌瓮(いむべ)

 これで吉備がなぜ巴利国の「道の口」なのか、

 よくわかるようになった。

 吉備津彦が酒の力を借りて「えびの市」一帯を味方につけ、

 彼の支配下においた事情が、

 情景になって眼に浮かぶようにわかる。

 その時期が事実、卑弥呼の死直後のことだったことを、

 証明している「時間帯の座標」もまたちゃんとある。

 それは彼が使った小道具の忌瓮(いむべ)である。

 おわかりのように「忌む」というのは「嫌う・恐れる」という文字で、

 彼が飲ませた酒の種類を表現している。

 仏教徒は人が死ぬと「忌」と書いた紙を門口に貼る。

 この時の「忌」は、卑弥呼が死んだあと、彼が好古都国王や貴族たちを招集して、

 今はなき卑弥呼の冥福を祈って酌み交わした弔いの洒だったことを、

 わざわざ特記したものなのである。

 それでなければ無意味に、

 縁起の悪い言葉なんかくっつけて「忌瓮」などと書く必要はない。

 彼はその時それで新たに大吉備津彦になった。

 そして私たちは今それで史実を復元した。

 これで前記『古事記』の文章の、

 私(加治木義博)の訳が正しいこともおわかり戴けたと思うが、

 念のため、

 疑問が残るかと懸念のあろ要点だけを説明しておこう。

 他は辞書をおひき戴きたい。

 「於 針間 氷河之前 居 忌瓮 而 針間 為 道口 以 言向 和 吉備国」。

  於 ……から…へ 居 置いて 瓮 酒壷 而 それで……を  以 によって

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2012年10月23日火曜日

敗北した倭国政権の亡命先



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:29頁

 《敗北した倭国政権の亡命先
 「敗北した倭国政権の亡命先

 しかし、それなら卑弥呼時代にも、

 倭人はその道を通っていたはずだから、

 今更、酒まで飲ませて

 「巴利国へ行く女王国の入り口だ」などと認めさせる必要はない。

 ところがそれが必要になったから、そんなことが実行されたのだ。

 そんな必要が生まれた理由は卑弥呼政権の敗戦で、

 情勢が一変したこと以外にない。

 巴利国は邪馬壹国になり、

 倭国政府の首都ではなくなってしまった。

 どこかに新しい都を造る必要があったのである。

 山を下った伊声耆は加久藤の王たちを招集して酒を飲ませた。

 それは成功したか?。

 その結果を記録している強力な遺物がこの真幸を含む一帯にある。

 それは、えびの市になるまで、

 そこは「京町」だったことである。

 この古代にはタブーだった首都を意味する地名が残ることで、

 都がここへ移ったことがわかる。

 しかしそれなら「巴利国へ行く入り口」と、わざわざ呼ぶ必要はない。

 京町へは真幸からだけでなく、どの方向からでも入れる。

 そこが「巴利国へ行く入り口」になったのは、

 さらに巴利国が遠くへ移動していたためである。

 逃げた先は、険しい山路をよじ登る追跡困難な球磨だったのだろうか?。

 これも地名の比較でわかる。

 球磨はクマだから敵国「狗国(クマ)」だが、

 宮崎県なら日向だから「日の国」。

 これをマレー語で読むと「ハリ国(マ)」、

 一見して巴利人がどこへ逃げたか分かる。

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2012年10月22日月曜日

実在して今も残る「氷河之前」



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:28頁

 《実在して今も残る「氷河之前」
 「実在して今も残る「氷河之前」

 この「そこ」とはどこだろう?。

 「氷河之前」を「日向のどこか」とみても、

 おおよその意味はわかるが、

 「之前」をこれまでのように意味不明の「の先」などと読まずに、

 特定の地名とみたほうが、はるかに具体牲がある。

 そんな都合のいい地名があるだろうか?。

 ある。

 吉松の北、人吉との中間点に「真幸(まさき)」という地名がある。

 これと「之前」を比較してみよう。

 この「之前」に助詞「ン」を挟むと「之ン前」すなわち「シンサキ」。

 後世これに「真幸」という好字を当て字し、

 真の最前線を強弱するため発音も「マサキ」に変えたと推理できる。

 これがコジツケか、どうかは、

 私たちや他の学者の権威や感情でなく、

 『魏書倭人章』や『古事記』が記録している史実に、

 この答が合理的に一致しているかどうかが決める。

 まずそこが「之前」という意味をもつかどうか考えてみよう。

 そこは確かに宮崎県の西の最先端が、

 鹿児島県と熊本県との境に、

 楔(くさび)のように割り込んでいる。

 まさに「日向の先」そのものだ。

 『古事記』はこの代名詞が現実に使われていた史実を、正確に記録している。

 ではそこが「巴利国への道の口」に合うか。

 『魏書倭人章』の

 邪馬壹国への「隆行一月」は、

 熊本県八代から球磨の人吉へ登り、

 この真幸へ下り、

 吉松・栗野を経て隼人に至る南行一直線のコースだった。

 まさに「女王国の入り口=巴利国への道の口」そのものだ。

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2012年10月21日日曜日

古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:27頁

 《古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」
 「古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」

 しかし、今のえびの市は旁国・好古都国で卑弥呼の領土だった。

 それが、

 たとえ実弟だといっても彦五十狭芹彦の領地になるだろうか?。

 なるとすればそれは卑弥呼の死後しかない。

 それが正しいという傍証がえびの市にある。

 それは馬関田と書いて「マガタ」と読む地名があることである。

 この名は「曲田」と同じくソナカが運んできた国名、

 聖なる祖国マガダ国への当て字の一つである。

 だからその名は卑弥呼政権の聖地を意味する。

 その命名者はもちろん仏教徒だし、

 本来なら首都の巴利国にこそあるはずの地名である。

 それが隼人になくて、遠く北に離れた旧・好古都国の跡地にある。

 これだけの条件を考えると、

 それは卑弥呼政権が敗れて、首都を脱出した人々が、

 いったん海老野高原に逃れたあと新たに作った亡命政権の首都が、

 ここ、えびの市だったということが完全にわかる。

 これには、さらに傍証がある。

 それは『記・紀』が記録している吉備津彦の行動である。

 『古事記』孝霊記

 「於 針間 氷河(ひょうが)之前 居 忌瓮 而 針間 為 道口 以 言向 和 吉備国=

  針間から氷河之前に忌瓮(いむべ)を置いて言向けして、それで吉備国を和らげて、

  針間の道の口にした」

 当時の針間は巴利国だけで、

 付近で氷河に合う地名はヒュウガ=日向。

 巴利から運んだ酒を使って吉備人を説得して、

 そこを巴利への道の口にしたというのだ。

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2012年10月20日土曜日

吉備津彦の領地は旧・飯野まで



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:26頁

 《吉備津彦の領地は旧・飯野まで
 「吉備津彦の領地は旧・飯野まで

 それまでは伊佐郡は山深い辺境で、

 彦五十狭芹彦・吉備津彦の所領に合うかどうか迷いがあったが、

 この日の海老野登山で一望のもとにそれをみて、

 始めて確信がもてた私(加治木義博)は、

 その次の休日に大口市へ出かけて、

 ときおりご指導を仰いでいた高名な考古学者・寺師見国医師をお訪ねした。

 するとお近くにお住いの作家・海音寺潮五郎氏を招かれて、

 私(加治木義博)の話を聞いて戴き、大発見だ!と

 大いにお祝い戴いた。

 それから早くも半世紀。

 今また本講を書くことになり、

 今は亡きお二人の想い出に浸り、ご冥福を祈る機会をえた。

 学問の世界は清々しい。

 私(加治木義博)はいま人間の幸福とは何かを、

 心から思わずにはいられない。

 余談が混じったが、吉備津に戻ると、その候補はもう一つある。

 それは市の東瑞に当たる地域で、合併前は町名だった「飯野」だが、

 今は消えてしまって小学校とJRの駅名として残るだけである。
 
 この市には「上江=ウワエ」があって「上井=倭」の訛りだと分かるが、

 この辺りでは「エ」と「イ」の発音が混乱するから、

 飯野の古音「イヒノ」も「エヒノ」であったとみるほうが、

 吉備津→海老野→飯野の関連を教えてくれて有意義である。

 えびの市の名は、戦後の観光ブーム時代に、

 脚光を浴びた海老野高原を利用した知恵者の作品に過ぎないが、

 その原名は「海神族の老首長」をうまく表現した秀作だったと褒めていい。

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2012年10月19日金曜日

吉備津の名をもつ市と高原が現存



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:25頁

 《吉備津の名をもつ市と高原が現存
 「吉備津の名をもつ市と高原が現存

 だが吉備津の候補地はこれだけではない。

 吉松の北の宮崎県域にも、

 さらなる有力な地名が厳存しているからだ。

 そこは好古都国の跡、

 元の加久藤(カッツ)で、

 今の「えびの市」である。

 「吉=え・備=び・津=の」だから、

 ここは完全にえびの=吉備津なのである。

 しかしそこが「えびの市」になったのは昭和45年12月のことで、

 それまでの「えびの」は、市街地ではなく、

 南に聳える霧島連峰の北西端に広がる高原の名だった。

 大戦末期、

 栗野国民学校の教員をしていた私(加治木義博)は、

 冬の一日、町の東にある栗野岳に登り、

 えびの高原へ行ってみた。

 そこは枯れススキの草むらが点在する白っぽい禿げ山で、

 凹みに淡緑色に澄みきった小池があり、
 
 蒸気を噴き出す穴の周囲に、

 硫黄臭いモヤが立ちこめているだけの、

 人影も動物も、小鳥の影さえもない荒涼とした場所だった。

 そんなところがなぜ、

 『古事記』に特記された「吉備津」だったろうか?。

 考えられ阜理由は一つしかない。

 そこは卑弥呼の死後、

 首都を追われた倭国の残党が、

 命がけで逃げこんだ避難所だったのだ。

 眼下に眼を移して見渡せば、

 加久藤、吉松、菱刈、大口から、

 はるか出水にかけて山間に点在する町々が、

 およその位置を示す程度に並んでいて、

 果ては茫漠と覆んでしまい、

 南九州の規模を改めて思い、

 かっての伊声耆の領土と勢力の大きさを実感したのだった。

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2012年10月18日木曜日

伊佐の東に実在した吉備の遺跡



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:24頁

 《伊佐の東に実在した吉備の遺跡
 「伊佐の東に実在した吉備の遺跡

 しかしそんな『日本書紀』でも、

 正しく活用できさえすれば貴重な史実の宝庫ではある。

 そこに記録きれていた「吉備津彦」の名も、

 それを雄弁に立証する得難い記録の一つである。

 なぜならそれは、

 これまでに発掘できた真相を、さらに大きく拡大してくれたからなのだ。

 伊佐郡に隣接する東の地域は姶良郡で、もう薩摩ではなく大隅の北端である。

 そこに旁国の鬼奴国の遺跡・栗野町がある。

 そこが栗野という地名に変わったのは

 「鬼奴」の発音が「クイヌ」に変わった近世音時代のことで、

 3世紀には「 kiueg no キウェッ ノ」だった。

 これに当て字して「吉備(キヴェッ)の」国と書いたとすれば、

 伊声耆は郡境を越えて栗野まで支配していたということになり、

 彼が吉備津彦と呼ばれた理由もわかる。

 これをさらに立証してくれるのが栗野の北にある「吉松町」だ。

 立派に「吉」の頭文字をもっているし、

 「キマツ」と読むことにすれば吉備津により近くなる。

 それだけではなくて、

 その北には宮崎県の西端が細く横たわっていて、

 そのすぐ北はもう熊本県の人吉市だが、

 ここもまた間違いなく「吉」の字をもっている。

 そこは大学講義録15の地図でも

 「鬼国」だと決定した地域だが、吉と鬼の関係は変わらず、

 この辺りが吉備だった可能性はますます濃くなる。

 これで鬼奴国と鬼国がともに吉備を指す名だった事実がわかり、

 私(加治木義博)の旁国の位置解明が完全だったことが立証されている。

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2012年10月17日水曜日

史実を消した天武『日本書紀』による被害



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:23頁

 《史実を消した天武『日本書紀』による被害
 「史実を消した天武『日本書紀』による被害

 ここで、もう一度、出雲の関連神社名を見て戴きたい。

 それを『日本書紀』の伊声耆への当て字=彦五十狭芹彦と比べて見ると、

 全部ちがっている。

 伊佐・因佐・伊勢は皆、伊佐とつながり、

 出雲も出水と同じ名への当て字だとすぐわかるが、

 それらの社名は『日本書紀』にある

 彦五十狭芹彦も吉備津彦も全然知らない。

 『日本書紀』に書かれた名が本来の名乗りだったのなら、

 こんなことにはならない。

 神社名も五十狭我とか五十狭賀とか五十狭波神社と書かれ、

 国名も郡名も「五十(イズン)国・五十(イズン)郡」で、

 出雲などという国はなかったはずなのだ。

 だが現実には出雲の人々は、

 『日本書紀』編集者が創作した当て字を全然知らず、

 祭神たちが『日本書紀』の彦五十狭芹彦たちだという事実も知らない。

 せいぜいが「出雲国造の祖・伊佐我命だ」といった、

 京大元総長の知識ていどのものしかもっていない。

 せっかく自分たちの血を分けた先祖を尊んで、

 幾つもの神社を建てて祭りながら、

 その先祖が誰で、何をしたのか全然わからないという、

 なんとも情けない状態が現在まで続いたのである。

 天武天皇の『日本書紀』編纂の企みは、

 そこまで私たちの先祖たちの歴史を

 闇に葬り去り国民の眼を昏(くら)ませてしまったのだと

 わかる実例がここにある。

 それなのに過去の歴史関係者らは、

 そんな『日本書記』のほうを「真実だ」と錯覚し、

 教え続けてきたのである。

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2012年10月16日火曜日

なぜ佐賀か?出雲からどこへ行ったか?



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:22頁

 《なぜ佐賀か?出雲からどこへ行ったか?
 「なぜ佐賀か?出雲からどこへ行ったか?

 伊佐賀がなぜ佐賀の語源か?。

 これは伊達をなぜ「ダテ」と発音するのか?

 という疑問と共通している。

 伊達の語源は葦駄天という仏教の守護神の名だが、

 この発音は「イダテン」。

 それなのに伊達は「ダテ」と発音して、語頭の「イ」を嫌っている。

 伊佐賀と佐賀も、これと同じく語頭の「イ」を嫌って、伊を省いている。

 これは沖縄から鹿児島にかけて住んでいたマレー語を話す人々

 (沖縄の3母音語もサツマもマレー語)の仕業なのである。

 マレー語で「イ」は「王」だ。

 王でなくなった者からは取り去る。

 伊声耆は確かに今の佐賀の地域にあった伊都国にいて支配者でもあったが、

 やがてその地位を奪われ、国を譲ってどこかへ去って行った。

 「イサガ」でなくて「サガ」に訂正したのである。

 ではついでに伊声耆一族はどこへ行ったかも考えてみよう。

 出雲へ行った証拠は前ページで充分見たがそれだけではない。

 群馬県の伊勢崎市は

 「伊=伊、勢=声、崎(キ)=耆(キ)」で

 完全に同じ名乗りの別字である。

 しかし伊勢崎という姓は本来、九州の姓なのである。

 これが偶然や他人の空似ではない証拠は、

 伊声耆の同族・都市牛利の名乗りもまた隣県の栃木に入っている。

 都市牛利を「トチギュウリ」と発音すると、

 「栃木入・彦」と書けるし、

 後で詳しくお話しするが、

 崇神天皇の皇子女・豊城入彦兄妹は皆「栃木入」に合うのである。


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