2014年1月5日日曜日
孝昭・孝安の皇居は屋久島と沖縄本島
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録31:21頁
これには、さらに有力な傍証がある。
それは前記の十市の県主・天足彦国押人(孝安天皇の兄)と、
弟の日本足彦押人(孝安天皇)とが生まれ育った皇居は「掖上」にあったと
2人の父・孝昭天皇の元年の記事にある。
『魏書倭人章』には
「掖邪拘(ヤジャカウ)」という壹與の側についた率善中郎将がいて、
八坂(ヤザカ)王であることはご存じの通りだが、
その名乗りに該当する地名は
「屋久(ヤク)・邪久(ジャク)・狗奴(クノ)」以外にないし、
その島国の王の蔑称が「疫神(ヤクジン)=スサノオ」で、
彼を祭っている神社の名が「八坂神社」。
どこからみても掖邪拘は屋久島王である。
すると十市に結びつく「掖上」は「ヤジャウ」への当て字で、
それは「掖邪王(ヤジャウ)」すなわち屋久島王だから、
そこに隣り合う十島が十市であり、
十島(トシマ)とは「十市国(トシマ)」と読んだ後世の当て字である。
東京都の豊島(としま)もアムピトリテ女神の名の子孫だったことがわかる。
また孝安天皇の皇居は「秋津島の宮」である。
アキツは沖縄語が語源の蜻蛉(トンボ)のこと。
神武天皇が取った秀真(ホツマ)国を形容して、
「蜻蛉が臀呫(となめ)する
(大きいトンボの仲間は時々下半身を曲げて尻端を嘗(な)める)
姿に似ている」と言ったことから
「秋津洲(しま)という名が生まれた」と『日本書紀』が書くが、
沖縄本島はいかにも尾を曲げたトンボを右横から見たような形をしているが、
日本列島全体を精密に見ても、そんな島は他にはない。
孝安の秋津島は沖縄本島だったことになる。
《孝昭・孝安の皇居は屋久島と沖縄本島》
「孝昭・孝安の皇居は屋久島と沖縄本島」
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