2014年1月4日土曜日
孝安・孝霊両天皇の皇后は十市県主家の出身
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録31:20頁
この十市の名は先ず『日本書紀』の孝安天皇の26年に、
天皇の姪(めい)・押媛(オシヒメ)を皇后にした。とあり、
その注に
「一云、十市県主(あがたぬし)・五十坂(伊都・釋迦)彦の女(むすめ)・五十坂(伊都・釋迦)媛」
と付記してあるから、十市という地名をもった県(地域)があったのである。
この皇后が孝霊天皇の生母だとあるが、
「孝霊天皇記」の始めに、
「孝霊天皇の母を押媛(オシヒメ)という、
蓋(けだ)し天足彦国押人命(孝安天皇の兄)の女(むすめ)・乎(か)」と書いてあるから、
その通りだとすると十市県主五十坂彦とは、
この孝安天皇の兄の別の名乗りだということになる。
孝霊天皇は2年2月、細媛を皇后にしたが、その注にも、
「一云、十市県主等の祖の女(むすめ)・真舌竣」と付記してある。
天皇は代々、同じ十市県主家の娘を皇后に選んだというのだから、
十市は重要な家系だったことがわかる。
それだけでなく、現実には卑弥呼が女王だったのに、
それには全く触れず、
崇神天皇が元首だったように書いている『記・紀』の、
記事の実態を考えると、
この2人の皇后のほうが、
実は卑弥呼のような女帝だった可能性が強い。
では十市の県とはどこにあったのだろう?。
屋久島の南にある口之島から奄美大島の北の宝島に至るトカラ諸島も
十韓(トカラ)だった可能性があり、
そのなかに十島(としま)村がある。
奄美大島との位置関係からみて
「アムビ」につながる「トイチ」はこの諸島以外は考えられない。
《孝安・孝霊両天皇の皇后は十市県主家の出身》
「孝安・孝霊両天皇の皇后は十市県主家の出身」
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