2014年1月24日金曜日
古すぎる邪馬台国大和説と那珂・和辻両氏の疑問
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録32:7頁
邪馬台国大和説とは、神武天皇が奈良橿原(かしはら)で即位し、
以後、万世一系の天皇たちが続いた、
とする『記・紀』を盲信する説のことである。
それは南北朝時代の北畠親房(ちかふさ)が
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を書いた
14世紀のものと同じものである。
今から120年以上も前の明治11年(1878年)に
出版された那珂通世(なかみちよ)の
『上代年紀考(じょうだいねんきこう)』には、
『記・紀』にある神武天皇の即位年は真実ではなく、
西暦元年前後に訂正しなければならないと書いていて、
この説は多少の修正が加えられた程度で戦後まで、
日本史学界のほぼ定説になっていた。
大正に入ると和辻(わつじ)哲郎が、
その著書『日本古代文化』(1920年出版)で、
より明確に疑問点を明かにした。
近畿中心に銅鐸文化が栄えた時代は、
『記・紀』が書く神武天皇東征前後に重なる。
ところが九州では銅鐸は全く出土せず、
南部は無銅器で、北部は飼剣・飼鉾(ほこ)文化圏であった。
神武天皇の即位以来近畿に一系不変の皇室があったのなら、
皇室の祭祀には銅鐸が不可欠なはずなのに、
それには銅鐸は全然使用されず、
反対に剣が皇位の象徴になっている。
その上、
銅鐸の出土状態は、
山麓(ろく)などに捨てられたか隠されたかという状態で発見されて、
とても皇室やその下の権力者が祭祀に使った聖器や象徴だとは思えない。
どうみても、
九州の銅剣人が近畿の銅鐸人を滅ぼした、
としか見えないと指摘した。
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