2014年1月27日月曜日
倭・日本・ヤマトの順に変化した我が国名
『Yahoo!天気・災害』
『Matのジオログ』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録32:10頁
ヤマトについてご存じの人は少ない。
本講座の総括にそれを取り上げることにしていた。
そこへ奇跡的に勝山古墳の年輪問題が飛び込んできたのである。
これは私たちの祖霊の啓示としか思えない。
ここでしっかりヤマトを総括して把握しておこう。
① ヤマトの語源は
「八幡徒」だと、講義録5の23頁から26頁で説明した。
『海幸・山幸』説話の海人(ハヤト)と山人(ヤマト)で、
天武天皇の初めの名乗り「大海人」は倭海人(オオハヤト)。
この天皇がたてた新政権が「ヤマト朝廷」と呼ばれたことで、
7世紀には海人と山人が一体化していたことがわかる。
それは以後のヤマト朝廷の権威の源が八幡信仰だったからで、
祭政一致の大本山が隼人町の鹿児島神宮にあり、
3万を超す全国の八幡社が全国組織を形成して行(い)った。
そのため朝廷が「八幡徒(ヤマト)朝廷」と呼ばれたのである。
奈良が同じヤマトという代名詞をもったのは7世紀以後で、
その直前には天智天皇の日本(ヒノモト)、
それ以前は聖徳太子らの倭(ウワ)が
中国・朝鮮の記録にある国名である。
当然その政権が奈良にあった間は、
政権所在地も国名と同じ発音で、
それぞれヒノモト、ウワと呼ばれていた。
しかし政権がヤマトに変わると、
倭も日本も共に、
ヤマトという訓みに変わった。
ヤマトは一番あとの国名で、
首都が京都に移転したために以後は
奈良の地名として固定した。
それは同じ立場の今の京都の名が立証している。
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