2014年1月31日金曜日

ヤマの語源が八幡だという証拠


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:14頁

 祭礼の山車(ダシ)は八幡社の祭礼の車という意味だから、

 その「山」はヤマで、

 八幡をヤマンと読んだものへの当て字、

 「山ン車」だとわかる。

 また山車と書いてダシと発音する発音の原語は、

 パーリ語の rathi ラチだと断定できる。

 南九州語ではラ行はダ行・ザ行になり、

 沖縄のチはシになるからラチはダシになる。

 ところがパーリ語の「車」は ratha で、

 それに乗る人という活用で rathika ラチカになる。

 日本語になったダシは、車そのものを指すのではなく、

 それに乗って芸を見せる人、太鼓を叩く男や、扇で舞う者、

 その代用品でさらに演出効果をもった飛騨のカラクリ人形といった
 
 「演技者」を指す活用形「ラチカ」のほうに、

 本当の語源があったとみていい。

 このことは「山車」という漢字表現もまた、

 「車」そのものではないと、はっきり表現している。

 「山すなわちヤマ=八幡(ヤマン)または八坂(ヤパン)」の
 
 「祭礼専用の車」だという限定名詞なのだから、

 一般的な「車」そのものの原語 ratha と比較しても一致するはずがない。

 このように、原語が何だったかを知るには、

 方言差による発音の変化を常に計算に入れていなければならない。

 ところが過去の日本語学者は、

 奈良に古代から標準語があって

 それが次第に地方に流れて訛ったものが「方言」だ、

 と決めてかかっていたのである。

 《ヤマの語源が八幡だという証拠
 「ヤマの語源が八幡だという証拠

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月30日木曜日

八幡と日本の語源は同じ「イオニヤ人」


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:13頁

 「言語の分類」  「意味」 「スペル」 「発音」 「語根」「スペル」「遺物」

 古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iavones ヤポーネス ヤボン JAVON   日本

 古代ギリシャ語  イオニヤ人 Iaones   ヤオーネス  ヤオン Yao    八尾

 古代ヘブライ語  イオニヤ人 Yavan    ヤパン            (中国語)野蛮

 古代ペルシャ語  イオニヤ人 Yauna    ヤウナ      「遺物」


 サンスクリット語 ギリシャ人 Yavana   ヤバーナ  八幡・山名

 パーリ語     ギリシャ人 YoNA     ヨーナ   与那国・与那原・与那嶺

 パーリ語     ギリシャ人 Yonaka   ヨナカ   米花、夜中、世の中

 パーリ語     ギリシャ人 Yanaka   ヤナカ   谷中、家中、梁川、柳川

 中国語      ギリシャ人 Yaban    ヤパン   野蕃・野蠻

 日本語      ギリシャ人 Yaman    ヤマン   八幡・山之口(ヤマンクッ)
                               (鹿児島の地名)

 マレー語     父     Yaman    ヤマン  (Sanguil島語)

 ジャワ語     王・陛下  Yamtuan  ヤムトワン Sangulm      陛下

 《八幡と日本の語源は同じ「イオニヤ人」
 「八幡と日本の語源は同じ「イオニヤ人」

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月29日水曜日

巨大文化財『永良部(エラブ)』と沖縄産・具貨


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:12頁

 ③ ヤマトの超古代史

   ハムラビ法典で有名な、

   バビロニヤ第一王朝のハムラビ大王が

   敵のラルサ王・リム・シンを

   捕虜にして奪った本拠地が

   「エラムのヤマトバル」だった。

   エラムは沖縄語でエラブ=沖縄~鹿児島両県にある永良部(エラプ)。

   ヤマトバルは大和原=奄美大島の大和村と一致する。

   そのバビロニヤも紀元前1530年にカッシイト人に敗れて四散した。

   こうした人々が日本列島へやってきた証拠群が、

   宝島やトカラ列島の名を残すカリエン人の古代貝貨産業であり、

   武内宿祢一族の姓氏であり、

   高句麗、コーレアンからバイカル湖にいたる多数の関係名詞であり、

   広く東アジア各地から出土する沖縄・奄美近海原産の貝貨遺物である。

   その海域の両端に口の永良部(エラブ)と沖の永良部(エラブ)という島名が、

   巨大な文化財として今も残る。

   日本人が永い間、

   固有の国名だと思い込んでいた「ヤマト」は、

   そうした人たちが運んできた古代メソポタミアの地名だったのである。

   と大学講義録5の25頁や大学講義録9の25頁などでお話しした。

   追加すると、

   アラビアではヤマトは地名としてギリシャ時代にも残り、

   ヤマトロンとして栄え、

   移動拡大してYaman=英語読みの

   「イエーメン」として現代も残っているが、

   私たちにとって見逃せないのは、

   それが多くの国でギリシャ人を意味する名詞として使われてきた。

   その代表的なものが「八幡」だからである。

   その各国語のリストをご覧に入れよう。

 《巨大文化財『永良部(エラブ)』と沖縄産・具貨
 「巨大文化財『永良部(エラブ)』と沖縄産・具貨

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月28日火曜日

ヤマトが3世紀の名なら奈良朝の名にはならない


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:11頁

   京都とは「政権所在地・首都」のことなのに、

   それが東京に移っても、

   いまだに京都とは「政権所在地・首都」のことなのに、

   それが東京に移っても、

   いまだに京都などと呼ばれているのは、

   詳しく書けば「旧(もと)京都」という意味の、

   単なる地名に変質しているからである。

   同じことは東京でもいえる。

   前からいわれている遷都が実行されて「都」ではなくなっても、

   東京という地名がなくなることはない。

   都が府か県に変わるだけである。

   ヤマトは、それが一番新しい大化以後の名だということを、

   その名、自身が立証している。

   仮に3世紀の地名だったら、

   倭・日本に消されていて、

   『魏書倭人章』の旁国や、

   奈良県でいま使われている地名の、

   その前の地名同様、

   消えて終って誰も知らないはずである。

 ② ヤマト信仰の歴史

   八幡は、八幡大菩薩という仏号で呼ばれる。

   これは卑弥呼の倭国を引き継いだ政権として、

   巴利(パーリ)国=隼人(ハイト)町に都していたのだから、

   これも仏教国後継者として当然な称号である。

   いずれにしてもシンドゥ教ではなく、

   厳密にいえば「ギリシャ教と仏教の合体したもの」で、

   その前にまだカリエン人時代のシュメル→バビロン宗教の遺物がある。

   シュメルでは山を崇拝し、

   その信仰がバビロンのジグラット(バベルの塔)建設として歴史に残っている。

   バビロン崩壊後、

   インドへ移った人たちは今もヒマラヤをスメル(シュメル)山と呼んでいるから、

   天皇をなぜスメラギと呼ぶか、

   答ははっきりしている。

 《ヤマトが3世紀の名なら奈良朝の名にはならない
 「

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月27日月曜日

倭・日本・ヤマトの順に変化した我が国名


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:10頁

 ヤマトについてご存じの人は少ない。

 本講座の総括にそれを取り上げることにしていた。

 そこへ奇跡的に勝山古墳の年輪問題が飛び込んできたのである。

 これは私たちの祖霊の啓示としか思えない。

 ここでしっかりヤマトを総括して把握しておこう。

 ① ヤマトの語源は

   「八幡徒」だと、講義録5の23頁から26頁で説明した。

   『海幸・山幸』説話の海人(ハヤト)と山人(ヤマト)で、

   天武天皇の初めの名乗り「大海人」は倭海人(オオハヤト)。

   この天皇がたてた新政権が「ヤマト朝廷」と呼ばれたことで、

   7世紀には海人と山人が一体化していたことがわかる。

   それは以後のヤマト朝廷の権威の源が八幡信仰だったからで、

   祭政一致の大本山が隼人町の鹿児島神宮にあり、

   3万を超す全国の八幡社が全国組織を形成して行(い)った。

   そのため朝廷が「八幡徒(ヤマト)朝廷」と呼ばれたのである。

   奈良が同じヤマトという代名詞をもったのは7世紀以後で、

   その直前には天智天皇の日本(ヒノモト)、

   それ以前は聖徳太子らの倭(ウワ)が

   中国・朝鮮の記録にある国名である。

   当然その政権が奈良にあった間は、

   政権所在地も国名と同じ発音で、

   それぞれヒノモト、ウワと呼ばれていた。

   しかし政権がヤマトに変わると、

   倭も日本も共に、

   ヤマトという訓みに変わった。

   ヤマトは一番あとの国名で、

   首都が京都に移転したために以後は

   奈良の地名として固定した。

   それは同じ立場の今の京都の名が立証している。

 《倭・日本・ヤマトの順に変化した我が国名
 「倭・日本・ヤマトの順に変化した我が国名

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月26日日曜日

矛盾だらけになる原因はヤマトヘの無知


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:9頁

 銅鐸の問題ひとつを考えただけでも、

 邪馬台国大和説は成立しないが、

 この和辻説だと、こんどは、

 「では、負けて滅んだ神武天皇を、

  初代の天皇として系譜の中に特筆する必要が、

  一体なぜ?あるのか?」という、

 もっと大きな疑問が生まれる。

 もちろん権力者の系譜や業績は、

 修飾されていると考えていいが、

 それにしても苦戦して撃ち破った憎い敵を、

 自分たちの聖なる初代皇祖として崇(あが)め、

 特筆することは絶対にない。

 こうしたことから和辻氏は九州説から大和説に180度転向してしまった。
 『魏書倭人章』の方位は90度狂っている。
 南というのは東のことだなどと主張したのは彼である。

 (『和辻哲郎全集』第三巻「新稿日本古代文化」昭和26年)

 以上でわかるように、

 「邪馬台国は神武天皇の時代からすでに奈良にあった」としても、

 「銅鐸終末期に奈良に入った政権」としても、

 矛盾だらけで何ひとつ解決がつかない。

 その原因は何なのか?。

 それは「ヤマト」という名詞を、誤解しているからなのである。

 それも単純な誤解ではない。

 ヤマトとは奈良の古名だという知識しかなくて、

 それがどんな語源をもち、

 いつから地名になったのかという知識も研究もなしに、

 さらに邪馬臺をヤマトなどと読めると思い込んでいる。
 
 その無知の数々が相乗した結論が正しいはずがない。

 《矛盾だらけになる原因はヤマトヘの無知
 「矛盾だらけになる原因はヤマトヘの無知

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月25日土曜日

九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:8頁

 ではその九州の勝者・銅剣人とは何者だったのか?。

 和辻氏はそれが邪馬臺(だい)国だという。

 なぜなら当時、強大だった邪馬臺国が征服されたのなら、

 それこそ大きな伝承となって残らねばならないが、

 そんな記録も形跡もない。

 それなのに邪馬臺国の名が3世紀以後は、完全に消えてなくなってしまった。

 いったいどうなったのか?。

 その後に全国を統一した「大和」政権が現われている。

 「ヤマト」という名は九州で生まれた名で、

 九州の邪馬臺国が奈良に「東遷(とうせん)」したことを示す一つの証拠である。

 といっている。

 これも「邪馬臺国大和説」と見出しをつけることができるので、

 ずいぶん紛らわしいが、

 実際には

 「邪馬臺国は九州にあったが、東遷して大和になった」という説で、

 正しく分類すれば、「邪馬台国九州説」の1つである。
 
 この説は『魏書倭人章』が書いた壹與時代までは邪馬臺国は九州にあったが、

 壹與以後の無記録の時代に、奈良の銅鐸人を征服して移住し、

 大和朝廷を残したという説である。

 うっかりしていると、

 その先頭に立って奈良へ攻めこんだのが神武天皇だったような錯覚に陥るが、

 そのとき滅ぼされたのは、

 壹與時代以後まで奈良で続いていた銅鐸人の政権であり、

 その銅鐸人は、

 その時まで奈良に君臨していた神武天皇の子孫だったということになる。

 《九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか
 「九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:8頁

 ではその九州の勝者・銅剣人とは何者だったのか?。

 和辻氏はそれが邪馬臺(だい)国だという。

 なぜなら当時、強大だった邪馬臺国が征服されたのなら、

 それこそ大きな伝承となって残らねばならないが、

 そんな記録も形跡もない。

 それなのに邪馬臺国の名が3世紀以後は、完全に消えてなくなってしまった。

 いったいどうなったのか?。

 その後に全国を統一した「大和」政権が現われている。

 「ヤマト」という名は九州で生まれた名で、

 九州の邪馬臺国が奈良に「東遷(とうせん)」したことを示す一つの証拠である。

 といっている。

 これも「邪馬臺国大和説」と見出しをつけることができるので、

 ずいぶん紛らわしいが、

 実際には

 「邪馬臺国は九州にあったが、東遷して大和になった」という説で、

 正しく分類すれば、「邪馬台国九州説」の1つである。
 
 この説は『魏書倭人章』が書いた壹與時代までは邪馬臺国は九州にあったが、

 壹與以後の無記録の時代に、奈良の銅鐸人を征服して移住し、

 大和朝廷を残したという説である。

 うっかりしていると、

 その先頭に立って奈良へ攻めこんだのが神武天皇だったような錯覚に陥るが、

 そのとき滅ぼされたのは、

 壹與時代以後まで奈良で続いていた銅鐸人の政権であり、

 その銅鐸人は、

 その時まで奈良に君臨していた神武天皇の子孫だったということになる。

 《九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか
 「九州の邪馬臺国が東遷して大和政権を作ったのか

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月24日金曜日

古すぎる邪馬台国大和説と那珂・和辻両氏の疑問


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:7頁

 邪馬台国大和説とは、神武天皇が奈良橿原(かしはら)で即位し、

 以後、万世一系の天皇たちが続いた、

 とする『記・紀』を盲信する説のことである。

 それは南北朝時代の北畠親房(ちかふさ)が

 『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を書いた

 14世紀のものと同じものである。

 今から120年以上も前の明治11年(1878年)に

 出版された那珂通世(なかみちよ)の
 
 『上代年紀考(じょうだいねんきこう)』には、

 『記・紀』にある神武天皇の即位年は真実ではなく、

 西暦元年前後に訂正しなければならないと書いていて、

 この説は多少の修正が加えられた程度で戦後まで、

 日本史学界のほぼ定説になっていた。

 大正に入ると和辻(わつじ)哲郎が、

 その著書『日本古代文化』(1920年出版)で、

 より明確に疑問点を明かにした。

 近畿中心に銅鐸文化が栄えた時代は、

 『記・紀』が書く神武天皇東征前後に重なる。

 ところが九州では銅鐸は全く出土せず、

 南部は無銅器で、北部は飼剣・飼鉾(ほこ)文化圏であった。

 神武天皇の即位以来近畿に一系不変の皇室があったのなら、

 皇室の祭祀には銅鐸が不可欠なはずなのに、

 それには銅鐸は全然使用されず、

 反対に剣が皇位の象徴になっている。

 その上、

 銅鐸の出土状態は、

 山麓(ろく)などに捨てられたか隠されたかという状態で発見されて、

 とても皇室やその下の権力者が祭祀に使った聖器や象徴だとは思えない。

 どうみても、

 九州の銅剣人が近畿の銅鐸人を滅ぼした、

 としか見えないと指摘した。

 《古すぎる邪馬台国大和説と那珂・和辻両氏の疑問
 「古すぎる邪馬台国大和説と那珂・和辻両氏の疑問

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月23日木曜日

「50万年前の旧石器」捏造事件と同工異曲の手口


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:6頁

 ⑥ 遺物溢れる南九州と皆無の奈良

   また彼女の鬼道の実体・観音菩薩仏教が薩南諸島から台湾、

   中国の南海に及ぶ広範囲に分布して残り、

   大化改新で滅んだ倭国仏教が聖武天皇や光明皇后時代に

   再び花開いて奈良に大仏や多数の観世音像を残し、

   今も南九州に『姫講様(ヒメコサア)=観音講』が現存し、

   仏教用語パーリ語が今も日本語として、3000語もの共通語を残して、

   南九州語の中核になり、方言にも全国的に少なからぬ発音を残している。

   ところが奈良にあるのは5世紀以後の仏教遺跡と、

   それ以後の中央政権遺物ばかりで、

   3世紀の仏教遺物も宮室樓観の痕跡もない。

   しかも『魏書倭人章』が書かない宝器「銅鐸(どうたく)」が出土する。

 ⑦ この板切れの年輪年代の発表
  
   これと多くの共通性をもつ最近の日本発掘考古学界の事件に例えると、

   近年、50万年前の地層から出土したから50万年前の旧石器だと

   主張した文化財捏造(ねつぞう)事件が発覚したが、

   199年ごろに伐採された年輪は確かで、

   50万年前の地層と同じ立場にあり、

   それを利用して正体不明の邪馬台国を「本物だ」などと主張するのは、

   50万年前の地層を利用して手製の石ころを

   「50万年前の本物だ」と主張した偽造犯人と、全く同じ手口である。

   この2つの事件続発が、心ある世界の有識者たちの胸に、

   日本人に対する不信感を一層強く焼きつけたことを、

   私たちは決して軽く考えてはならない。

 《「50万年前の旧石器」捏造事件と同工異曲の手口
 「「50万年前の旧石器」捏造事件と同工異曲の手口

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月22日水曜日

邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:5頁

 ④ 先に「卑弥呼とは誰、奈良にいた」という立証が必要

   その記事には「卑弥呼」の時代とか、

   「邪馬台国の有力者」といった大見出しをつけ、

   「邪馬台国大和説に有利」とまで書いたものさえある。

   しかし勝山古墳が3世紀以前のものだとしても、

   卑弥呼とは誰で、奈良県のどこにいたと、

   完全に証明されていればそれでいいが、

   一切不明のままで卑弥呼や邪馬台国をもちだして、

   それと勝山古墳を関係づけるのは余りにもムチャである。

 ⑤ 巨大な生活有機体・邪馬台国が実在した証拠が必要
  
   ことにそれが邪馬台国が2世紀に付近に実在した証拠だというのなら、

   邪馬台国とは名だけでなく、

   巨大政権として7万戸もの大人口をかかえた生活有機体だったのだから、

   僅かに板切れ1つではなく、

   その国が勝山古墳の辺りに実在して多数の国民が生活していた遺物、

   ことに先進大国だった中国の知性の高い官僚が

   「宮室樓観城柵巌設」と認めた大建築群の遺物がなければならない。

   私たちがすでに検討を済ませた卑弥呼の首都・巴利国だけみても、

   応神天皇に至るまでの皇居のあとが、

   大隈正八幡宮=鹿児島神宮として今なお現存しており、

   隼人町という地名やパーリ語を語源にした南九州語が大量に残り、

   また彼女の倭迹迹日百襲姫という名乗りや

   『魏書倭人章』の人物名に符合する地名群が、

   あるべき位置にちゃんと残っている。

 《邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る
 「邪馬台国なら巨大な有機体遺物が残る

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月21日火曜日

何の証拠力もない勝山古墳の木板年輪


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:4頁

 では、

 199年前後に切られたことが確実な木坂が出土したから、

 勝山古墳はそのころ築造されたと決まったのか?。

 板の年輪が古墳の年代を決定する力(ちから)があるか、考えてみよう。

 ① 年輪は「木が切り倒された年代だけを記録している」にすぎず、
 
   それ以外のことを証明する能力はない。

   勝山古墳の板は古墳で行なわれた祭りに使われた

   あと捨てられたものと推定しているが、

   その時に生きていた木を切り出して使ったという確証はない。

 ② 「使用年代」は立証できない『年輪考古学』

   材木は保存状態によっては1000年以上後でも使用できる。

   たとえば法隆寺の五重の塔は7世紀のものである。

   今、その柱を切って板にして箱を作っても、

   年輪は7世紀だから7世紀に作られたというのが今回の説だ。

   弥生の建築物は丸木造りで木の伐採年はよくわかるが、

   カヤ葺家屋は教百年は保(も)つ、

   年輪には制作年代を証明する力はないから、

   その廃材製品の製造年代は年輪ではわからない。

 ③ 「土器編年」による立証

   だから勝山古墳の年代を決定するものは、

   今のところは

   出土土器の編年しかないが、

   3世紀後半ごろと推定されている「布留(ふる)O式」土器だから、

   年輪説より1世紀も後の築造とされてきた古墳である。

   年輪が証拠だと主張するためには先ずその前に、

   土器編年が間違っていることを立証して、

   承認されていなければならない。

 《何の証拠力もない勝山古墳の木板年輪
 「何の証拠力もない勝山古墳の木板年輪

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月20日月曜日

新教材「勝山古墳出土の木片」


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録32:3頁

 大学講義録31の発送準備が終わった後に、

 奈良の勝山古墳出土の木板に、

 紀元199年の特徴をもつ年輪があり、

 その外側にあったが削られてなくなっている部分も最大12年分だから、

 紀元180年から紀元190年にかけて伐採されたもので、

 勝山古墳は我が国最古の前方後円墳である可能性があると、

 例によって関西では特に大きく報道された。

 事前に関係者から情報を受けていたので、

 各紙をとって報道ぶりを比較してみたが、

 愛講者の皆様からもお住まい地域の報道状況をお知らせ戴いたので、

 ご関心にお答えしてご好意のお礼に代えたい。

 それが邪馬台国と結びつけられているので、

 「まだヤマタイコクなんて…」と笑ってしまわずに、

 この木片を教材として役立ててみよう。

 ご存じのことだが念のため

 『年輪考古学』を要約すると、

 太陽黒点の盛衰周期などの影響で地球気温は年ごとに変動するから、

 樹木の成長は一定していない。

 その年の気温差が年輪の大小になって『記録』されている。

 この記録は屋久杉(ヤクスギ)の切り株など

 1お000年を超える樹齢のものの研究で、

 何年は高温で、

 何年は低温だったと判明しているから、

 寒暖に影響され易い樹木なら、

 その年輪の特徴を標準木の年齢と比較すれは、

 その木がいっ切られたか断定できる。

 今回の木板はヒノキで、

 スギに近い針葉樹だから、

 比較さえ精密なら、

 その年代は充分信頼できる。

 《新教材「勝山古墳出土の木片」
 「新教材「勝山古墳出土の木片」

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月19日日曜日

世界の先進文明をもった父祖の偉業史


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:35~36頁

 古代ギリシャと倭国連邦との関係、

 その構成国、

 さらにそれらと切っても切れない『四神』の真相が、

 簡単な略文ながら、的確にご理解戴けたと思う。

 ついでにお話しすると、虎の「トラ」という発音も、

 古代大ギリシャ帝国の中の1国の、

 トラキヤ=虎王国(トラキヤ)からきている。

 これはもうよくご存じの通り、

 コルシカ=黒鹿(コルシカ)島や、

 その南のサルジニヤ=猿人国(サルジニヤ)、

 シシリヤ=獅子人国(シシリヤ)(今のシチリア)、

 イオニヤ=魚人国(イオニヤ)諸島らと

 同じケースであって、

 一つ二つだけが偶然似ているといった単純なものではない。

 これ程の量の証拠群の価値が判定できないとしたら、

 それは気の毒ながら脳に欠陥があるのである。

 この例では「人」をいろいろに発音してあるが、

 ジは「日本人」のジン、

 ニは「他人」のニンで、私たちが日常使う発音であり、

 リは「日本人(リーペンリ)」のりで、

 今の北京(ぺキン)語=古代の夫余(=倭・高句麗・百済と同族)語である。

 このことから、こうした発音の違い「方言差」の原因は、

 地中海の方言差にあったことも、これでよくわかる。

 世界の比較言語学も古い殻を脱ぎ捨てて、

 21世紀にふさわしいものに羽化する必要があるのである。

 このリストで、

 もう一つ重要な問題は、

 卑弥呼一族の遠い故郷「アカルナニア」と、

 その間接的な後継者・応神天皇の皇居名「アカイヤ」の違いである。

 これは同じギリシャ出身者でも出身地の違いが、

 こうした違いになって現われたとみる人もあると思うが、

 今見た通り日本語との共通名が非常に多いのだから、

 古代ギリシャ語は日本語で理解できるはずであり、

 アカルナニアとアカイヤとはほとんど同じ意味をもつ国名だったと考えると、

 この2国名はもとは同じ名前で同族だったが、

 2国に分かれたために、

 意識して区別したのか、

 地域差等によって、

 少し変形したのだと見たほうが合理的で、

 それだと卑弥呼と応神の双方が、

 明り、赤い、大神、内、宇治など、

 多数の表現や名詞を共有している理由も納得が行くが、

 これを全く別の、縁もゆかりもない2国名だったとすると、

 このリストの一連の名詞は、

 全て偶然にも、奇跡的に、

 うまく相似した神秘な名詞だという、

 奇妙な説明が必要になる。

 だから私はこの2国は同族で、

 むしろ「アカルナニア」へ「明の宮(アカルナニヤ)」と

 当て字したものだと理解している。

 それは前にお話しした「ニワトリ」を「ミヤドリ」と発音する沖縄語だと、

 「ニヤ」が「ミヤ」になる可能性があるからだが、

 ご参考までにお話しして断定せずにおく。

 ウジンミヤ=オリンピアは、

 大学講義録24の12頁からぢ額講義録25の28頁の間で詳しくお話し済みで、

 省略させて戴くが、

 『記・紀』神話を根幹にした神社神道の根底には、

 ギリシャ神話があることを、

 さらによくご確認戴きたいし、

 我が国の建国史(高度政権国家成立史)は、

 私たちに生命を与えた祖先、

 地中海からインド亜大陸に至る世界の先進文明をもった父祖が、

 この列島に到着して苦闘して築いた国文化の努力の歴史だという事実を、

 強くご認識戴きたい。

 《世界の先進文明をもった父祖の偉業史
 「世界の先進文明をもった父祖の偉業史

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月18日土曜日

古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:34頁

 「姫講は」

 「姫講(ひめこ)さあ=卑弥呼様の講」という名で

 現代まで継続している南九州の「観音講」。

 ⑦は省略して、

 ⑧の「応神皇居」も、

 繰り返しお話ししたことだが、

 それが古代ギリシャの南端の国アカイヤの名をそのまま使って、

 「明(アカイ)・宮(ミヤ)=御家(ミヤ)=家(ヤ)=アカイヤ」という

 「南の皇居」を意味する表現になっている。

 そのカルシマはそのまま鹿児島と当て字できるし、

 カルの別の当て字は「姶良(カル)」で、

 これはカルから「カラ」になり、韓国とも呼ばれた証拠が、

 霧島山塊の主峰「韓国見岳(カラクニみだけ)」の名になって残り、

 応神が支配した朝鮮半島に韓国の名を残し、

 南九州から百済、新羅の名がそこへ移動したことを、否定する者はいない。

 そして『三国史記』は明瞭に初代新羅王を赫居世と記録しているが、

 その名は「赫居世国(カゴシマ)」という当て字。

 ほかにも13才で王になったなど、

 壹與だったことを示す記録に満ちている。

 南が赤(四神の朱雀(すざく))なら

 北の玄武は「玄(クロ)武(タカ)」で、

 クロアチアとタカクニ(高句麗)。

 その中央に、

 東は青竜=「青=オオ=倭、竜=辰巳島=種子(タツネ)島。

 地中海の東瑞に面していた

 古代アイオリヤ(藍織国(ヤ))=青(ア)い織り(オリ)物の王(ウ)国=アオリウ(青竜)国

 (後世→播磨の相生(アイオイ))である。

 西は白虎=「白(シラ)ヒラ(枚)ヒラキ(開)(木(キ))=コ(虎)、

 枚聞(ヒラキキ)・開聞(ひらきき)。

 このシラは古代シラキウス(今のイタリア領・シチリア島)である。

 《古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答
 「古代ギリシャと倭国連邦と『四神』の謎と答

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月17日金曜日

閼伽(アカ)と姫講は仏教用語、垢は蔑称、姫は南九州語


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:33頁

 ③の「安芸の発音は」

 「アゲイ」だが、

 清音では「アケイ」、薩摩語の赤い・明いなどと同じ発音になる。

 安芸は近世には「アキ」と発音して広島県西半の国名になったが、

 そこにある地名・上井も「アゲイ」で、

 文字は卑弥呼の本拠だった国分市の上井「ウワイ=倭」と全く同じだし、

 また安芸津(あきつ)という地名も

 「神武天皇紀」の

 蜻蛉(アキツ)と秋津洲(あきつしま)に合う重要地名である。

 ④「閼伽(アカ)は」

 仏教用語で「仏の供え水」を意味する。

 後世インド語でパーリ語ではない。
 先に卑弥呼の名の「アカ」があって、

 それが倭人仏教徒の特殊用語として使われたあと、

 後世に水を指す一般語化したものである点に注意がいる。

 銅のアカは単に赤い金属というだけだが、

 垢のアカはアブやシラミ同様、

 敗北した旧権力者に対する被害者の復讐語とみていい。

 ⑤は省略して、

 ⑥の「姫は」

 卑弥は正確には「ピーミャー」という沖縄発音だが、

 九州本土移動後は「姫(ひめ)木」のように短縮し、

 e 語尾に変わって「ヒメ」になった。

 「弥」は聖徳太子関連の文献こも「メ」への当て字として使われている。

 卑弥呼への梯儁(ティシュン)の当て字がなければ「姫(ひめ)」は生まれなかった。

 沖縄語圏で卑弥呼と呼ばれ、

 九州本土で連邦女王として九州語で呼ばれた史実を立証する

 この「卑弥呼という名乗り」ただ一つでも、

 奈良県や畿内では絶対に生まれない名なのだということが、

 やがて万人の常識になることは疑いない。

 《閼伽(アカ)と姫講は仏教用語、垢は蔑称、姫は南九州語
 「閼伽(アカ)と姫講は仏教用語、垢は蔑称、姫は南九州語

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月16日木曜日

アガフィの名を伝える「証(あか)し」と明石


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:32頁

 『魏書倭人章』は

 「尊卑各差序あり」と下戸(げこ)と大人(たいじん)の行動差を詳しく描写して、

 どんなに酷(ひど)い階級制度があったか、

 また「搏手(はくしゅ)して跪拝にあてる」と書く。

 搏手=拍手は神を拝む法

 また

 「持衰(じすい)=行路安全祈祷者」を殺し、

 犯罪者の宗族を滅ぼす等という記録は、
 
 全て仏教ではなくシンドゥ教で、

 この記事は邪馬壹国私立後の国情を、

 張政が記録したものであって、

 卑弥呼時代のものではない。

 前記の「崇・拝」問題に啓発されると、

 在来の説が「卑弥呼の邪馬台国の風習だ」としているのが、

 どんなにひどく間違っているかわかる。

 ②の「明石(あかし)は」

 今の兵庫県の明石市、

 播磨の東端に当たり、淡路島の北端に向かいあっている。

 播磨は巴利国からの移住者の国。

 淡路島は本講で重視した

 「大阪湾国生み」の舞台になった重要地域であるる。

 また「証(あか)し」は、

 真偽、黒白を決定する証拠のこと。

 社会の秩序を守り、混乱に終止符を打ち、

 知性によって理想郷をつくり上げる重要な知恵である。

 卑弥呼はその仏教で、様々な「証し」を見せる必要があった。

 それを『魏書倭人章』は

 「卑弥呼は能(よ)く衆を惑す=相手を心服させ、

  魅きつける能力を持っている」と記録している。

 それが「疑問を明かにするアカイ様の力(ちから)」だから、

 新しい日本語「明し・証し」として使われるようになり、

 後継者の代名詞になり、

 その大本山が「アカシ」と呼ばれて明石と当て字されたのだ。

 《アガフィの名を伝える「証(あか)し」と明石
 「アガフィの名を伝える「証(あか)し」と明石

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

2014年1月15日水曜日

重要な「崇(あが)む」と「拝(おが)む」の言葉の歴史


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録31:31頁

 リストの幼名アガフイから転訛したものを、

 念のため補足してご説明しておこう。

 ① の「アガム 崇拝は」

 本土語では「オガム 拝む」に拡大する。

 これを在来は全く反対に本土語の「拝む」が

 沖縄へ伝わって「崇む」になったとしてきたが、

 拝むというのは手を合わせたり、神前で拍手したり、

 頭を下げたりする「行動で表現する行為」をいうが、

 崇めるというのはそうした「行為」ではなく、

 脳で考える「思考」の問題なのである。

 釋迦は哲学として仏教を説き、偶像崇拝を厳禁したのだから、

 ソナカがもってきた仏教は、

 手を合わせたり礼拝したりする後世の仏教とは全然建ったもので、

 釋迦に対しても「崇め」はしても「拝み」はしなかった。

 「拝む」という行為と言葉は、

 後世に「アガム」が本土で「オガム」に発音が変化して生まれたもので、

 語源は沖縄語の「アガム」の方である。

 このように「崇む」は卑弥呼の幼名がもとになって生まれ、

 シンドゥ教などによって後世に「拝む」に変えられたという

 「言葉の歴史」を持った日本語なのである。

 だから「崇む・拝む」という日本語は卑弥呼以前にはなかった。

 それが卑弥呼の幼名から生まれて政権崩壊後に変化した。

 これは卑弥呼が沖縄言語圏にいて、

 哲学仏教の指導者だった証拠で、

 我が国の建国史上でも、

 言語史上でも、

 宗教史上でも、

 最も重要な動かぬ証拠の一つなのである。

 《重要な「崇(あが)む」と「拝(おが)む」の言葉の歴史
 「重要な「崇(あが)む」と「拝(おが)む」の言葉の歴史

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》