2013年8月23日金曜日

河内皇朝の実力と2種類の田尻


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:4頁

 10世紀の『倭名類聚鈔』をみると、

 「丹比」郡は河内国の最南端にあって、

 「太知比(たちひ)」と振り仮名がしてあり、

 「丹北と丹南をなす」と特記してあるので、

 大きな郡だとわかるが、他の郡は町村数が2から8なのに、

 この丹比郡だけは突出して11町村もあるという河内最大の郡である。

 その河内国そのものが、

 『倭名類聚抄』完成の数年前の政府公文書

 『延喜式』巻第二十二の「民部 上 畿内」には、

 首都平安京のある山城国を抜いて、

 大和国と並んで「大」にランクづけされている。

 それは隣接する和泉国の郡数3に対して、

 河内国は14郡もあるからである。

 以後「大」国は東海道の伊勢国がある以外には、相模国まで一つもない。

 河内国・丹比は、

 倭王・済=反正天皇の名乗りにふさわしい都の名残りを、

 10世紀の平安時代になっても、こんなに濃厚にとどめている。

 そこには丹上、丹下という町村名もあり、

 有名な丹下(たんげ)という姓の出処がわかるが、

 この姓は今でも鹿児島県にあって、

 河内皇朝当時から出身者の帰郷や交流があったことを証言している。

 田尻という地名が全国的な分布をもっていても不思議ではないが、

 5世紀当時の国情を考えれば、

 関西の田尻は反正政権の役所跡だとしても、

 東海以東の田尻は河内皇朝とは無関係で、

 倭国東遷以後の丹比人の移住先とみるほかない。

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