2012年12月30日日曜日
倭人はどこから、何時やってきたか?
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録19:4頁
《倭人はどこから、何時やってきたか?》
「倭人はどこから、何時やってきたか?」
漢の光和は西暦178年から183年の6年間である。
この時期に倭国に内乱があり、
卑弥呼が共立されて平和が回復した。
それまではその国本は男王制で、
それが七八十年続いていたというのだから、
その間は女性仏教徒を意味する
「優婆夷=倭」の国ではなかったことになる。
ところが『論衡(ろんこう)』には
「倭が周の皇帝に「鬯草(チョウソウ)=霊芝(レイシ)」を献上した」
という記事がある。
周はB.C.E.950年ごろに建国してB.C.E.256年に滅びたから、
繹迦が仏教を興す前に倭がウワイと発音されることはありえないし、
霊芝は日本列島では極く希なキノコだが、
東南アジアから中国南西部には大量に野生している。
中国ではそれを酒の香料として混ぜて欝鬯(ウッチョウ)酒を作るので、
僅かな量では何にもならないから、
日本列島からはるばる中国まで献上にいくことはありえない。
周の皇帝に献上した倭人は日本列島ではなく、
その大量野生地域にいたのである。
それなら倭人はいつ日本列島へ住みついたのであろう?。
古代中国の地理誌『山海経(せんがい)』の第十二
「海内北経」の後尾に倭が記載されている。
「蓋(ケイ)国は鉅燕(きょエン)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」というのだ。
この記事の指す時代は、第九「海外東経」の末尾に、
「建平元年(B.C.E.6年)四月丙戌に書いた」という、
漢の領主省の長々とした肩書を持つ三人の役人のサインがあるから、
前漢代だったことは間違いない。
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