2012年12月2日日曜日
反正・雄略2天皇の皇居と陵墓地
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録18:5頁
《反正・雄略2天皇の皇居と陵墓地》
「反正・雄略2天皇の皇居と陵墓地」
『記・紀』が書く記事のウソは、黄金塚古墳が暴露してくれた。
少なくとも反正天皇=倭王・済までは、
女王制が厳格に守られていた事実が、
その葬制という動かない証拠になって残っていた。
では『記・紀』が書くことは全てウソばかりなのか?…。
『記・紀』はこの2天皇たちの葬制をどう書いているか、
調べてみる必要がある。
皇居 崩年 陵の所在地
反正天皇記 多治比之芝垣宮 60才 陵 河内之恵賀・長枝 「※」
反正天皇紀 河内・丹比・紫籬宮 空白 陵 空 白
雄略天皇記 長谷・朝倉宮 124才 陵 多治比・高鸇
雄略天皇紀 泊瀬・朝倉宮 空白 陵 丹比・高鷲原
(「※」本によっては本文にはなく割注に「毛受野(モズノ)陵の北」とあるが、
現在そこには、そんな陵はない)
『古事記』にはムリに空白を埋めた跡がはっきり見え、
124才などと現実離れしたことを平気で青いているが、
『日本書紀』は中国人に笑われるようなことは、
ここでは書かない。
だがそれでも、
ご覧の通り双方とも、
この2天皇もまだ奈良には葬っていないと書いている。
『黄金塚古墳』
「黄金塚古墳」
『反正天皇=倭王・済』
「反正天皇=倭王・済」
『反正天皇』
「反正天皇」
『雄略天皇』
「雄略天皇」
『『古事記』』
「古事記」
『日本書紀』
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