2012年12月1日土曜日
箸墓古墳は「雄略女王陵」か「雄略天皇陵」か
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録18:4頁
《箸墓古墳は「雄略女王陵」か「雄略天皇陵」か》
「箸墓古墳は「雄略女王陵」か「雄略天皇陵」か」
この、「天武天皇製の『記・紀』」によれば
「反正天皇」に当たる「女王と夫の男王」の、
その子孫である倭王・武=「天武天皇製の『記・紀』の雄略天皇」が、
やっとのことで奈良県の一角「高市」を取り、
長谷の地を手に入れて、
そこにまた観世音を祀る長谷寺を建てたのである。
『記・紀』はさすがにその「名乗り」で、
それをよく記録している。
『古事記』は大長谷若建。
『日本書紀』は大泊瀬幼武と書くが、
この「大」は倭(ゥオ)、
「泊瀬(ハッセ)」は一見して百済(ハッセイ)で、
倭王らが自称した名乗り「倭・百済・新羅~七国諸軍事~」からみると、
元の倭国はすでに細かく分けられていて、
泊瀬は百済として扱われていたのである。
高所にあるその長谷・泊瀬の宮の眼下に横たわるのが「著墓」である。
その被葬者は誰か、
それを記録しているのは、
倭人だけの前方後円墳をその地域に持ち込んで、
神聖な墓の名を「長谷(ハシ)墓」とつけ、
それを永く伝承してきたことが最大不動の証拠だから、
当時としては、唯一、長谷(はし)の名乗りをもつ
「いわゆる雄略天皇」と、その妻「倭女王」しか被葬者はいない。
だとすれば
『日本書紀』はこの天皇の人としてあるまじき非行の数々を列挙しているから、
その一つを天武天皇の方針に従って「百襲姫に故事つけた」のが、
例の『著墓伝説』なのだという新たな証拠まで揃いはじめる。
これがもう覆ることのない『箸墓の最終結論』だ。
『長谷寺』
「長谷寺」
『著墓伝説』
「著墓伝説」
『My ブログ』
古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
『言語復原史学会:画像』
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿