2012年12月13日木曜日

倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:18頁

 《倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり
 「倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり


 すると武の上表文の

 「東征毛人55国、西衆夷服66国、海北渡平95国」の読み方は、

 過去のままではいけなくなる。

 この上表文の実体は、劉宋の臣下である安東大将軍・武が、

 主君である劉宋の順帝に提出した

 「報告書」なのであることを見落としてはならない。

 この文章は

 「私たちが東の毛人の国55カ国を征服して取りましたので、

  西の衆夷たちの66カ国も恐れて服従しました。

  そこで玄界灘と朝鮮海峡を北へ渡って

  朝鮮半島の95カ国も平定しました」という、

 次第に大国化した過去の業績を誇示している部分なのだ。

 その目的は、それまで自称に過ぎなかった安東大将軍を、

 皇帝の公認に格上げしてもらうためで、

 讃以来、永く同じことを繰り返してきた。

 これは卑弥呼が魏に遣使して

 親魏倭王の金印紫綬をもらったのと同じ伝統政策で、

 彼らが卑弥呼らの後継者だった証拠である。

 478年当時の東55国は旁国サイズだと

 「九州東半+四国」ていどだから、

 伊声耆らが日向にいた人々を追い出し、

 次に讃らが四国を取ったので、

 九州の66国もなびいて勢力下に入ったから、

 その勢いで朝鮮半島の95国を攻めて

 一大連邦国家化した経緯がよくわかる。

 だから武上表当時の版図は東は大阪までで、

 それ以後の拡大も奈良県下の領土としては、

 彼の「武=タケシ」という名乗りに合う

 高市(タケチ)郡ぐらいしか考えられない。

 『親魏倭王の金印紫綬
 「親魏倭王の金印紫綬

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