2015年10月9日金曜日

≪アズミ族の正体≫宮崎神宮


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫宮崎神宮

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
 出典:平凡社:歴史地名大系
 
 宮崎神宮(みやぎきじんぐう)(現)宮崎市神宮

 大淀川が南に大きく湾曲する左岸の丘陵を南に下った所にある。

 境内の北側には船塚山・船塚陵などとよばれる船塚古墳がある。

 祭神は神武天皇。

 相殿に鵜草葺不合尊・玉依姫命を祀る。

 旧官幣大社。

 古くは神武天皇宮と称された。

 奈古八幡社記には

 「神武天皇宮殿建立成就に依て今日八幡宮より

  遷宮地頭土持太郎信綱供奉馬上也」

 とあり、鎮座は鎌倉初期と思われる。

 それ以前の社は下北方の古市にあったとされ、

  宮殿造営のためいったん奈古神社に奉遷し、

 完成ののち遷宮したという(宮崎県史蹟調査)。

 古市には摂社皇居屋(皇宮神社)があり、上古の皇居跡とされ、

 宮崎の「宮」の地または「笠狭の埼」といわれる(同書)。

 舟塚遷宮日記写(古神社文書)によると、

 文亀二年(1502)八月三日大風により舟塚宮が崩壊、

 翌三年再建にとりかかり、同年一一月一九日遷宮した。

 遷宮入用として公方(伊東尹佑)から

 馬一疋・太刀二・絹一疋・錦一さけ、

 代官から絹一疋・染物一・銭一貫文・布二束などが届けられている。

 中世には伊東氏の崇敬が厚かったと伝え、

 江戸時代には領主による修復が行われた(宮崎役所万覚)内藤家文書)。

 「国乗遣聞」によると、元禄年中(1688―1704)に

 神武天皇・奈古八幡両社に地方五石が寄進されている。

 元禄一一年の寺社境内領除地覚写(奈古神社文書)では

 神武天皇廟所は高二石五斗が除地となっている。

 寛政四年(1792)六月一九日、下北方村に入った

 高山彦九郎は延岡藩宮崎役所の海老原筑後と別れたのち、

 「船塚神武天皇の宮へ参る、鳥居宮共に南向傍に池有り

 二石五斗除地神主大野河内と宮に於て語」り、

 当宮の後ろの「天皇の御船を埋めし所と伝ふ」船塚陵にも言及している。

 文化九年(1812)九月六日、佐土原(現佐土原町)の修験野田泉光院は

 芳士村を出発し「船塚と云ふ村」に至り、

 「神武天皇の宮居」に詣でて拝礼・納経している(日本九峰修行日記)。

 明治六年(1873)宮崎神社、同一一年宮崎宮、

 大正二年(1913)宮崎神宮と改称したとされるが(宮崎県神社誌)、

 「日向地誌」には宮崎神宮とみえ、明治七年に改めたという。

 例祭日は一○月二六日。

 明治初年までの御神幸は例祭終了後に行われる習わしであった。

 その範囲は神輿を担いで境内や神社付近を回る程度であったが、

 現在のように神幸の儀の形が整えられたのは

 明治四二年以降のことという。

 第二次世界大戦中に行事は行われなくなったが、

 昭和二一年(1946)に御神幸祭を復活し、

 同二五年現在の形での神武天皇祭、神事流鏑馬が行われた。

 皇宮神社の破魔矢祭は同社地にあった

 祇園様と称する神社の神事と思われ、

 神像の神札を頒布し玄関に貼り魔除けとした。

 旧一月一四日、御幣をつけた弓矢を供えた後、

 大祓の祝詞を唱えながら矢を放ち、その年の豊凶を占う。

 神事流鏑馬は古くから「ヤクサミの神事」として

 秋の例祭日に盛大に行われていたようで、

 江戸時代には開始前に神前で礼式(競馬)が行われていた

 (日本古義・笈墳随筆)。

 天明二、三年(1782、83)頃、

 日向を訪れた橘南谿は「東西遊記」に

 神武天皇宮の流鏑馬競馬について詳細に述べ、

 「乗人は纔か十人斗りにて、二百間斗りの馬場を三遍ずつ、

  百五六十疋の馬を朝より暮に及ぶまで少しもひるまず乗ること、

  誠に馬上の達者といふべし」と記している。

 明治三一年この神事は途絶えたが、昭和一五年馬場が現在地に設けられ、

 古式流鏑馬が再興された。

 神事は四月二日

 川原政の儀、翌三日饗膳の儀、奉幣の儀、馬場入の儀がある。

 まず鎌倉時代の狩装東の先陣が現れ、

 続いて江戸装束の射手が的に射込む。

 当り的は一年の豊穣を祝福する縁起物とされる。

 境内には根回り約三メートルのオオシラフジがあり、

 国指定天然記念物。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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