2015年10月4日日曜日

≪アズミ族の正体≫東臼杵郡


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫東臼杵郡

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―
 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
 出典:平凡社:歴史地名大系

 「東臼杵郡」

 面積2096.01平方キロ(境界未定)

 北浦町・北川町・北方町・門川町・東郷町・北郷村・

 西郷村・南郷村・諸塚町・椎葉村

 宮崎県の北部に位置する。

 北は大分県南海部郡蒲江町・直川村・宇目町および同県佐伯市、

 西は西臼杵郡、熊本県上益城郡清和村・矢部町、同県八代郡泉村・

 同県球磨郡水上村、

 南は児湯郡と西都市に接し、東は延岡市と日向市に接する地域を除き

 日向灘に面する。

 明治一七年(1884)臼杵郡が東西に分割されて成立し、

 当初、北は大分県海部郡・大野郡、西は西臼杵郡、

 南は児湯郡、東は日向灘に面していた。

 郡域は大部分が山間地で、北部の大分県境には

 大崩山(1643.31メートル)などがそびえ、

 一帯は祖母傾国定公園に指定されている。

 西部の熊本県境には国見岳(1738.8メートル)・

 鳥帽子岳(1691メートル)など

 1600~1700メートル級の九州山地が連なり、

 九州中央山地国定公園に含まれる。

 また山間を切裂くように、西臼杵郡五ケ瀬町を水源とする五ケ瀬川や、

 椎葉村を水源とする耳川などが東流し、日向灘へ注ぐ。

 郡の成立時は九町五三村で、郡役所は延岡に置かれた(県庁文書)。

 明治一九年の戸数16842・人口85203(地方行政区画便覧)。

 同二一一年の町村制施行により延岡・細島の二町と岡富・恒富・伊形・

  門川・冨髙・岩脇・東郷・南郷・西郷・北方・南方・東海・北川・

 南浦・北浦の

  一六村が成立した。

 大正一○年(1921)富高村が町制施行。

 昭和五年(1930)延岡町は岡富村と恒富村を合併し、

 同八年延岡市となる。

 同一○年門川村が町制を施行。

 同一一年東海村・伊形村が延岡市に合併。

 翌一二年には細島町と(富高町が合併し富島町となった。

 同一一四年西臼杵郡諸塚村と同郡椎葉村が東臼杵郡に編入された。

 同二六年富島町と岩脇村が合併し日向市となる。

 同三○年延岡市が南方村・南浦村を合併した。

 同四四年東郷村が、翌四五年には北方村がそれぞれ町制施行。

 同四七年には北浦村と北川村がそれぞれ町制を施行し、

 現在当郡は五町五村となった。

 「耳川(みみかわ)」

 県北部の主要河川で、日向市美々津を河口とする二級河川。

 源流域は九州山地のほぼ中央部熊本県境の向坂山(1684.4メートル)から

 国見岳(1738.8メートル)を経て銚子笠(1488.9メートル)に至る

 分水界の東側山岳地帯である。

 全延長91.1キロで県下第一、支流も十根川・柳原川・坪谷川など

 28流がある。

 明治一九年(1886)の統計及内務報告(県庁文書)には

 美々津川と表記され、10支流をあげているが、

 そのうち名称が今日まで変わらないのは

 坪谷川・小原井川・七ッ山川・不土野川である。

 中世・近世の史料には美々川ともみえる。 

 源流から河口までの流域の大部分がV字谷の連続で、

 西郷村小原地区から上流域にかけては深い峡谷が続く。

 上流の椎葉村の中心上椎葉地区では役場や民家が

 谷壁沿いの狭い場所に集落を形成する。

 ここに残る那須家住宅(通称鶴富屋敷)は国指定重要文化財。

 険しい地形が村に隠田集落的性格を与え、

 鶴富姫伝承という平家落人伝説を残したものと思われる。

 山村では谷筋は他地域に通じる往還として重要である。

 上椎葉で分岐する小崎川(一次支流)の谷筋は西米良村に通じ、

 下推葉で分岐する十根川(一次支流)の谷筋は五ケ瀬町鞍岡地区へ通じ、

 現在は小林市から熊本県阿蘇町までの国道265号の一部となっている。

 鞍岡へは従来は国見峠越の難所があったが、

 平成八年(1996)国見トンネル(長さ2777メートル)が開通した。

 七ッ山川(一次支流)の谷筋は飯干峠を経て五ケ瀬町への道

 (国道503号)となっている。

 河口部にある美々津は神武天皇の東征出発の場所と伝えられ、

 戦国時代は細島(現日向市)とともに日向国の要港の一つであった。

 とくに島津氏は瀬戸内海へ出る重要な港湾として利用した。

 戦国期末、日向国は伊東氏を支援する大友氏と

 南から進出した島津氏の勢力に二分されていく。

 天正五年(1577)伊東義祐は

 島津氏によって日向を追われ大友氏を頼ったため、

 翌六年には大友宗麟は日向に侵入し臼杵郡を掌握した。

 大友軍は10月には耳川を越えて

 島津方の守る新納院高城(現木城町)を

 包囲したが落すことはできなかった。

 11月には大友軍の主力と島津軍の主力が

 耳川から高城にかけての一帯で

 激突することになった。

 同月11~12日の高城・耳川合戦で大友軍は殲滅され、

 多くの武将を失い、

 小丸川から耳川に退却する大友軍は島津軍に追撃され、

 一帯は大友軍将兵の死体で埋尽されたという。

 13日には島津軍は耳川を渡り大友軍を掃討し、

 耳川沿いの山毛・坪屋(現東郷町)、田代(現西郷村)をはじめとして

 日知屋・塩見(現日向市)、門川市(現門川町)は

 島津方の手中に入った(「日州御発足日々記」雑録など)。

 ………


 「上別府村(かみのびゅうむら)」(現)日向市美々津町

 才脇村の南、耳川下流域南岸に位置し、東は日向灘に面する。

 豊後街道が南北に走り、才脇村との間は渡船を用いた。

 上之別府とも記した。

 耳川河口近くは中世から美々津湊として知られ、

 湊町の美々津町が形成されていた。

 同町は郷帳類では当村地内に含まれる。

 児湯郡に属し、江戸時代は高鍋藩領。

 寛文四年(1664)の高鍋藩領知目録写

 (高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえる。

 同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高225石余。

 天保郷帳では高367石余。

 もと野別府代官川北庄屋の支配であったが、

 天明二年(1782)川北庄屋河辺久兵衛の願出により支配地が三分され、

 当村は高松名主の支配地になった(続本藩実録)。

 元禄三年(1690)九月延岡藩領の山陰・坪屋両村(現東郷町)の

 百姓らは、

 延岡藩郡代梶田十郎左衛門の苛政に抗して1400余人が

 川船で当村余瀬や峠越しで股猪野(現都農町)など高鍋藩領に逃散。

 高鍋藩では当村美々津に役人が詰め、

 延岡藩との交渉にあたった(高鍋藩日記」秋月家文書)。

 余瀬には川船のための番人が置かれていた(本藩秘典)。

 同九年六月には当村矢野庄兵衛宅に泊まり測量している

 (伊能忠敬測量日記)。

 明治五年(1872)田原・丸山・落子の三カ村と合併し高松村となる。

 この村名は旧上別府村の字地名をとったという(日向地誌)。

 旧高旧領取調帳によると高松村の高593石余。

 「日向地誌」によれば高松村の戸数731・人数2977。

 このうち落子・田原・丸山の三カ字地を除いた戸数

 (宮ノ下・高松・田窪・石並町・美々津町・上別府・余瀬を含む)は

 688。

 浄土宗専修寺と浄土真宗本願寺派正覚寺、立磐神社・愛宕神社・

 多賀神社がある。

 山陰一揆では、正覚寺で逃散百姓の代表と

 山陰山留黒木与次右衛門とが対談した(高鍋藩日記)。

 愛宕神社の祭神は火産霊命・大物主命・船玉大神。

 多賀神社の祭神は伊邪那岐命・菅原道真・彦火火出見命。

 字高松の円墳(一号墳)をはじめとした四基からなる

 美々津古墳(一部は古墳跡のみ)は県指定史跡。

 天文年間(1532~55)の築造といわれる橋口氏庭園(県指定名勝)は

 自然の岩壁を背に石組・池などが配されている。


 「美々津町(みみつちょう)」(現)日向市美々津町

 上別府村の東端部を占め、耳川河口の美々津(耳津)湊を

 中心に古くから廻船業が繁栄した。

 細島湊と並んで日向国の重要な湊町。

 神武天皇東征の際の出発湊であるとの伝説をもつ。

 弘治一一年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に

 「ミミ」とみえ、

 立岩大明神(現立磐神社)があったことが記される。

 天正一二年(1584)五月二一日、肝付兼寛は上洛に際して

 「美々津・細島」から出船の予定であると宮崎地頭である

 上井覚兼に伝えている(上井覚兼日記)。

 「上井覚兼日記)同一三年三月一一日条に「美々津町」とみえ、

 地下衆は「町衆」ともよばれ当時湊町が形成されていた。

 宮崎城主として覚兼はしばしばこの地を訪れ、

 地下衆の歓待を受けている。

 同一四年二月一四日、覚兼は島津義久の豊後出陣の準備のため、

 御座船の水主50人を美々津・細島から出させ、

 宿を塩見とするための準備を始めている(同日記)。

 美々津町は江戸時代を通じて領知目録上では上別府村に含まれた。

 耳川河口南岸から豊後街道沿いに南に延びる中町筋を中心に、

 北浜町・石並町からなる。

 石並町は中町筋の南、石並川北岸までに美々津大波被害のつど

 屋敷地を南に移して形成された。

 当町には高鍋藩から遣わされた番代が置かれ、

 その下に代官(二名)蔵方(三名)・足軽(一○余名)、

 遠見番所役人(六名)・

 美々津津口番人(数名)、余瀬番人(数名)などが配され、

 町政および美々津湊出入船舶全体を取締った。

 番代は番頭とも称し、初め二名で二○人扶持であったが、

 のち一名で、役料一○○石、

 享保一八年(1733)からは一年任期で交替した。

 蔵方は美々津が高鍋藩領内からの年貢米の津出湊

 (大坂まで183里)であったこと、

 耳川および石並川舟運で集められた上流域からの木材ほか

 諸物資の積出湊であったので、米蔵・船蔵を管掌した。

 享保一九年蔵方三名は、蔵米の引負米が多く不埒として死罪に処され、

 番代はじめ代官らも減封処分を受けている。

 耳川沿い余瀬口を守る余瀬番人は舟荷を監視し、引付証文を出した。

 また余瀬近辺(余瀬・飯谷・田代ケ原)の目付役を兼ね、

 竹山役をも兼務していた。

 なお高鍋藩主や鹿児島藩主が参勤交代時に使用する

 御仮屋が建てられていた。

 町方は老名(乙名)二名が番代以下の役人の命を受け町政を分担。

 船宿・材木問屋・廻船問屋・藩御用船頭・水夫・船大工・諸商人・

 日雇などが居住した(「本藩実録」 ほか)。

 藩御用船頭は慶応元年(1865)の高鍋藩人給帳によれば

 日高重之助で、徒士格37石5斗を給与されていた。

 耳川には渡守がおり、150匁を運上していた。

 東は海に面し、西は山丘が迫る当町は、

 火災に弱い条件を備えていたため、度々大火に見舞われた。

 宝永四年(1707)には291軒が延焼。

 享保七年には357軒が延焼。

 安水九年(1780)には北浜町から出火、

 北東風にあおられ336軒・土蔵21軒が焼失。

 このため突抜とよばれる幅の広い通りが火除地として設けられ、

 町家も漆食の土蔵造が多かった

 (以上「 本藩実録」「拾遺本藩実録」「続本藩実録」)。

 耳川および石並川の舟運は、上流域の延岡藩領の

 入郷(現東郷町・西郷村など)や椎葉など山岳地帯諸村と

 つながりが深かった。

 入郷地区などの木材・木炭など林産物は山陰村(現東郷町)の

 産物会所で船積みし、

 耳川を下り、美々津湊に集められ、大坂などへ積出された

 (「入郷村々産物書類留」長谷川家文書ほか)。

 津口番所では他領からの材木に10分1、

 その他諸品に口銭を課し徴収した(拾遺本藩実録)。

 貞享二年(1685)八月、水戸藩士佐々介三郎宗淳が徳川光圏の命で、

 九州各地の旧跡や古文書の調査を行った際、高城(現木城町)を

 立って津野(現都農町)、美々津を経て富高新町に至り宿泊している

 (「筑紫巡遊日録」国会図書館蔵)。

 元禄三年(1690)九月の山陰一揆では

 延岡・高鍋両藩の交渉が美々津町で行われた。

 この際豊後臼杵藩では、

 同五年五月にかけて小川所助らを日向国に派遣し、

 一揆に関する情報を収集させたが、所助はおもに美々津で情報を集め、

 臼杵に連絡した

 (「小川所助秋月領美々津ニ而承口上書之覚」稲葉家文書ほか)。

 同六年美々津の近藤六郎右衛門・黒木与五兵衛が

 田代村(現西郷村)のなよ竹の取引を延岡藩に申出て、認められている

 (「地方・山方・口屋」九津見家文書)。

 美々津の木屋安右衛門は山陰村寺迫門の山林の一部を、

 寛政一○年(1789)に一七カ年限で買取る契約をした。

 年限が切れたあと、木屋は永代買受であったとして延岡藩に出訴したが、

 文化一四年(1817)木屋は敗訴している(海野家文書)。

 湊口の深さは通常六尺、満潮時には九尺となり、広さは通常七間、

 満潮時には一五間に広がる。

 風向きにかかわりなく船懸りは自由で、

 大船70艘りが係留されていた(元禄国絵図)。

 享保一三年美々津の腰越船の係船場が浅くなり、

 大船が係留できなくなったため人足六○○人

 (うち四○○人は美々津町から)、

 船持は帆一反につき各二歩の費用を出し深く掘った(拾遺本藩実録)。

 石並川以南の漁場は元来川北網場であったが、

 近来美々津網場に免許になった。

 しかし落子・高松町両村などから外稼ができず困窮するとの願出があり、

 宝暦四年(1754)川北網場にもどされた(拾遺本藩実録)。

 明和五年(1768 )に美々津石並川端より高松まで、

 浜之手新道がつくられている(続本藩実録)。

 「日向地誌」によれば美々津町

 (耳川南岸より石並町まで南北六町・東西一町半)の家数398、

 石並町(美々津町より石並川東北涯まで南北四町余・東西三○間)の

 家数23。

 日本形船43(うち運船11・渡船2・漁船20 ・農船10)、

 前代同様耳川舟運での木材ほかの物資が美々津湊に集められ、

 同湊から各地に輸送されていた。

 湊は東西約三町・南北二町余、深さ一~四仞、北岸に出洲があり、

 七○○石以下の船二○余艘をつなぐことができた。

 出入船は年間約二四○~二五○艘。

 明治一七年(1884)美々津港のおもな輸出品は

 松1万2350本・炭125万6560貫・和紙10040束・椎茸2510貫など

 (「統計材料」県庁文書)。

 港町としての町並は日向市美々津伝統的建造物群保存地区として

 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 町並の建築物などは、元廻船問屋の河内屋や旧矢野家などに

 代表されるように上方文化の影響を受けている。

 
 「立磐神社(たていわじんじや)」(現)日向市美々津町

 美々津町の北端、耳川北岸に鎮座。

 祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命。

 旧郷社。

 弘治二年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には、

 「ミヽ立岩大明神領」として「野別符之内代か原」二反小、

 「同所松くき」田一反・屋敷一カ所とみえる。

 野別府は耳川河口部右岸から南は小丸川に至る地域名称である。

 神社に残る棟札によると

 元和九年(1623)・寛文八年(1668)・宝永二年(1705)・

 享保九年(1724)・享和三年(1803)に修復されている。

 寛永一五年(1638)の高鍋藩人給帳では

 「美々津 立岩神領」として五石とある。

 美々津は神武天皇東征の際、この湊から船出したという伝説の地で、

 当社境内には天皇が腰掛けたと伝える腰掛岩がある。

 旧暦八月一日に行われる「起きよ祭り」は

 神武東征伝説にまつわる祭である。

 神武天皇が日向国を立ち大和に向かうとき、

 船出がにわかに早まり八月一日の早朝に繰上げられ、

 住民を「起きよ」紀きよ」と呼起したことに由来するという。

 祭の前日、各家庭では笹竹に紙飾りをつけた「七夕」を立てる。

 当日朝三時半頃まだ暗いうちから、

 男の子は七夕飾、女の子は鳳仙花を持ち、

 「起きよ」「起きよ」といいながら、各家の戸をたたく。

 起こされた家は玄関などに設けられた御神灯の火をいれ、

 当社に参拝する。

 起こしながら町筋を回った子供たちは、

 水平線上が明るくなりかけた海岸へ行き笹竹を海に流す。

 この日、美々津では「揚きいれ餅」を作る。

 この餅は船出が早まり神武天皇一行に差出す餅作りが間に合わず、

 米の粉と小豆を鳩き混ぜて作ったという。

 港の沖に「御船出の瀬戸」という岩礁があり、

 天皇の船団がこの岩礁の間を通って船出したという。

 しかし天皇は再びこの地に帰って来なかったので、

 現在でも漁船など船出のとき、この岩礁の間は航行しない。

 
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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