2015年10月24日土曜日

≪アズミ族の正体≫日本書紀:天孫降臨


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫日本書紀:天孫降臨
 
 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 日本書紀:天孫降臨

 出典:岩波文庫

 『日本書紀』

 巻第二 神代 下 第九段(1)

 天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、

 娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫、

 生天津彦彦火瓊瓊杵尊。

 故皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉。

 遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。

 然彼地多有螢火光神、及蝿聲邪神。

 復有草木咸能言語。

 故高皇産靈尊、召集八十諸神、而問之曰、

 吾欲令撥平葦原中國之邪鬼。

 當遣誰者宜也。 惟爾諸神、勿隱所知。

 僉曰、天穗日命、是神之傑也。 可不試歟。

 於是、俯順衆言、即以天穗日命往平之。

 然此神佞媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。

 故仍遣其子大背飯三熊之大人、大人、此云于志。亦名武三熊之大人。

 此亦還順其父、遂不報聞。

 故高皇産靈尊、更會諸神、問當遣者。

 僉曰、天國玉之子天稚彦、是壯士也。 宜試之。

 於是、高皇産靈尊、賜天稚彦天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。

 此神亦不忠誠也。

 來到即娶顯國玉之女子下照姫、亦名高姫、亦名稚國玉。

 因留住之曰、吾亦欲馭葦原中國、遂不復命。

 是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。

 其雉飛降、止於天稚彦門前所植植、此云多底屢。

 湯津杜木之杪。杜木、此云可豆邏。

 時天探女天探女、此云阿麻能左愚謎。

 見、而謂天稚彦曰、奇鳥來居杜杪。

 天稚彦、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。

 其矢洞達雉胸、而至高皇産靈尊之座前也。

 時高皇産靈尊、見其矢曰、是矢、則昔我賜天稚彦之矢也。

 血染其矢。 蓋與國神相戰而然歟。 於是、取矢還投下之。

 其矢落下、則中天稚彦之胸上。

 于時、天稚彦、新嘗休臥之時也。 中矢立死。

 此世人所謂、反矢可畏之縁也。


 天照大神(あまてらすおほみかみ)の

 子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊

 (みこまさかかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、

 高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)の女(みむすめ)

 栲幡千千姫(たくはたち)を娶(ま)きたまひて

 天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を

 生(あ)れます。

 故(かれ)、皇祖(みおや)高皇産靈尊、

 特(おぎろ)に愛(めぐしとおもほすみこころ)を鍾(あつ)めひて、

 崇(かた)て養(ひだ)したまふ。

 遂(つひ)に皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、

 葦原中國(あしはらのなかつくに)の主(きみ)とせむと

 欲(おもほ)す。

 然(しか)も彼(そ)地(くに)に、

 多(さわ)に螢火(ほたるび)の光(かがや)く神(かみ)、

 及(およ)び蝿聲(さばへな)す邪(あ)しき神有り。

 復(また)草木(くさき)咸(ことごとく)に能(よ)く

 言語(ものいふこと)有り。

 故、高皇産靈尊、八十諸神(やそもろかみたち)を召(め)し

 集(つど)へて、

 問(と)ひて之曰(のたま)はく、

 「吾(われ)、平葦原中國の邪(あ)しき鬼(もの)撥(はら)ひ

  平(む)けしめむと欲(おも)ふ。

  當(まさ)に誰(たれ)を遣(つかは)さば宜(よ)けむ。

  惟(これ)、爾(いまし)諸神(もろもろのかみたち)、

  知らむ所(ところ)をな隱(かく)しましそ」とのたまふ。

 僉(みな)曰(まう)さく、

 「天穗日命(あまのほひのみこと)、是(これ)神の傑(いさを)なり。

  試(こころ)みざるけむや」とまうす。

 是(ここ)に、俯して衆(もろもろ)の言(こと)に順(したが)ひて、

 即ち天穗日命(あまのほひのみこと)を以(も)て

 往(ゆ)きて平(む)けしむ。

 然れども此(こ)の神、大己貴神(おほあなむちのかみ)に

 佞(おもね)り媚びて、三年(みとせ)に比及(な)るまで、

 尚(なほ)し報聞(かへりことまう)さず。

 故(かれ)、仍(よ)りて遣其(そ)の子(こ)

 大背飯三熊之大人(おほそびのみくまのうし)、

 大人、【此(これ)を于志(うし)と云(い)ふ。】

 亦(また)の名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣(つかは)す。

 此亦還(これまた)其の父(かぞ)に順(おもね)りて、

 遂に報聞(かへりことまう)さず。

 故、高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、

 更(さら)に諸神(もろかみたち)を會(つど)へて、

 當に遣すべき者(もの)を問はせたまふ。
 
 僉(みな)曰(まう)さく、

 「天國玉(あまつくにたま)の子天稚彦(あめわかひこ)、

 是壯士(これたけきひと)なり。 試みたまへ」とまうす。

 是(ここ)に、高皇産靈尊、天稚彦に

 天鹿兒弓(あまのかごゆみ)

 及び天羽羽矢(あまのははや)を賜(たま)ひて遣す。

 此の神、亦忠誠(まめ)ならず。

 來到(いた)りて即ち顯國玉(うつしくにたま)の

 女子(むすめ)下照姫(したでるひめ)、

 亦の名は高姫(たかひめ)、

 亦の名は稚國玉(わかくにたま)を娶(と)りて。

 因(よ)りて留住(とどま)りて曰(い)はく、

 「吾(われ)亦葦原中國(あしはらなかつくに)を

  馭(し)らむと欲(おも)ふ」といひて、

 遂に復命(かへりことまう)さず。

 是の時に、高皇産靈尊、

 其(そ)の久報(ひさひさかへりことまうし)に

 來(まうこ)ざることを怪(あやし)びて、

 乃(すなわ)ち無名雉(ななしきざし)を遣(つかは)して、

 伺(み)しめたまふ。

 其の雉(きざし)飛び降(お)りて、

 天稚彦(あめわかひこ)が門(かど)の前(まへ)に所植(た)てる 

 植、【此をば多底屢(たてる)と云ふ。】

 湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)に止(を)り。

 杜木、【此をば可豆邏(かつら)と云ふ。】

 時に天探女(あまのさぐめ)天探女、

 【此をば阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。】

 見(み)て、天稚彦に謂(かた)りて曰はく、

 「奇(めづら)しき鳥來て杜(かつら)の杪(すゑ)に居(を)り」

 いふ。

 天稚彦、乃(すなわ)ち高皇産靈尊の賜(たま)ひし

 天鹿兒弓(あまのかごゆみ)・

 天羽羽矢(あまのははや)を取りて、雉(きざし)を射て

 斃(ころ)しつ。

 其の矢雉の胸を洞達(とほ)りて、

 高皇産靈尊(たかむすひのみこと)座します前(みまえ)へ至る。

 時に高皇産靈尊、其の矢を見(みそなほ)して曰く、

 「是の矢は、昔(むかし)我が天稚彦に賜ひし矢なり。

  血、其の矢に染(ぬ)れたり。

  蓋(けだ)し與國神(くにつかみと)と

  相戰(あひたたか)ひて然(しか)るか」とのたまふ。

 是に、矢を取りて還(かへ)して投(な)げ下(おろ)したまふ。

 其の矢落(お)ち下(くだ)りて、

 則ち天稚彦が胸上(たかむなさか)に中(た)ちぬ。

 時に、天稚彦、新嘗(にひなへ)して休臥(ねふ)せる時なり。

 矢に中(あた)りて立(たちどころ)に死(かく)れぬ。

 此世人(これよのひと)の所謂(いはゆ)る、

 反矢(かへしや)畏(い)むべしといふ縁(ことのもと)なり。

 『日本書紀』

 巻第二 神代 下 第九段(2)

 天稚彦之妻下照姫、哭泣悲哀、聲達于天。

 是時、天國玉、聞其哭聲、則知夫天稚彦已死、乃遣疾風、擧尸致天。

 便造喪屋而殯之。 即以川鴈、爲持傾頭者及持帚者、

 一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者。又以雀爲春女。

 一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者。以鴗爲尸者。

 以雀爲春者。以鷦鷯爲哭者。以鵄爲造綿者。

 以烏爲宍人者。凡以衆鳥任事。

 而八日八夜、啼哭悲歌。

 先是、天稚彦在於葦原中國也、

 與味耜高彦根神友善。

 味耜、此云婀膩須岐。

 故味耜高彦根神、昇天弔喪。

 時此神容貌、正類天稚彦平生之儀。

 故天稚彦親屬妻子皆謂、吾君猶在、則攀牽衣帶、且喜且慟。

 時味耜高彦根神、忿然作色曰、朋友之道、理宜相弔。

 故不憚汚穢、遠自赴哀。

 何爲誤我於亡者、則拔其帶劔大葉刈、刈、此云我里。亦名神戸劔。

 以斫仆喪屋。 此即落而爲山。

 今在美濃國藍見川之上喪山是也。

 世人惡以生誤死、此其縁也。


 天稚彦が妻下照姫(したでるひめ)、

 哭き泣(いさ)ち悲哀(かなし)びて、

 聲(こゑ)天(あめ)に達(きこ)ゆ。

 是(こ)の時に、天國玉(あまつくにたま)、

 其の哭(おら)ぶ聲を聞(き)きて、

 則ち夫(か)の天稚彦の已(すで)に死(かく)れたること

 知(し)りて、

 乃ち疾風(はやち)を遣(つかは)して、尸(かばね)を

 擧(あ)げて天(あめ)に致(いたさしむ)。

 便(すなは)ち喪屋(もや)を造(つく)りて殯(もがり)す。

 即(すなは)ち川鴈(かはかり)を以(も)て、

 持傾頭者(きさりもち)及(およ)び持帚者(ははきもち)とし、

 一(ある)に云(い)はく、

 鶏(かけ)を以て持傾頭者(きさりもち)とし、

 川鴈(かはかり)を以て爲持帚者(ははきもち)とすといふ。

 又雀(すずみ)を以て春女(つきめ)とす。

 一に云はく、乃ち川鴈を以て爲持傾頭者とし、亦(また)爲持帚者とす。

 鴗(そび)を以て尸者(ものまさ)とす。雀を以て春者(つきめ)とす。

 鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)とす。

 鵄(とび)を以て造綿者(わたつくり)とす。

 烏(からす)を以て宍人者(ししひと)とす。

 凡(すべ)て衆(もろもろ)の鳥を以て任事(ことよさ)す。

 而(しかう)して八日八夜(やかやよ)、

 啼(おら)び哭(な)き悲(かなし)び歌(しのぶ)。

 是(これ)より先(さき)、天稚彦(あめわかひこ)、

 葦原中國(あしはらなかつくに)に在りしときに、

 與味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)と

 友善(うるは)しかりき。

 味耜、【此をば婀膩須岐(あぢすき)と云ふ。】

 故(かれ)、味耜高彦根神、天に昇(のぼ)りて喪(も)を

 弔(とぶら)ふ。

 時に、此(こ)の神の容貌(かたち)、

 正(まさ)に天稚彦が平生(いけりしとき)の儀(よそほひ)に

 類(に)たり。

 故、天稚彦が親屬(ちちははうがらやから)妻子(めこ)

 皆(みな)謂(おも)はく、

 「吾(あ)が君(きみ)は猶(しなずなほ)在(ま)しまけり」、

 といひて、

 則ち衣帶(ころもひも)に攀(よ)ぢ牽(かか)り、

 且(かつ)喜(よろこ)び且(かつ)慟(まど)ふ。

 時に味耜高彦根神、忿然作色(いかりおもほり)して曰(い)はく、

 「朋友(ともがき)の道(みち)、理(ことわり)

 相弔(あひと)ふべし。

  故、汚穢(けがらは)しきに憚(はばか)らずして、

  遠(とほ)くより赴(おもぶ)き哀(かなし)ぶ。

  何爲(なにす)れか我(われ)を亡者(しにたるひと)に

  誤(あやま)つ」といひて、

 則(すなは)ち其の帶劔(は)かせる大葉刈(おほはがり)、

 刈、【此(これ)をば我里(がり)と云ふ。

    亦の名は神戸劔(かむどのつるぎ)。】
 
 を拔きて、喪屋(もや)を斫(き)り仆(ふ)せつ。

 此(これ)即(すなは)ち落(お)ちて山と爲(な)る。

 今(いま)美濃國(みののくに)の藍見川之上(あゐみのかはかみ)に

 在(あ)る喪山(もやま)、是(これ)なり。

 世人(よのひと)、

 生(いけるひと)を以(も)て死(しにたるひと)に

 誤(あやま)つことを惡(い)む、此其の縁(ことのもと)なり。

 『日本書紀』

 巻第二 神代 下 第九段(3)

 是後、高皇産靈尊、更會諸神、選當遣於葦原中國者。

 僉曰、磐裂磐裂、此云以簸娑窶。

 根裂神之子磐筒男・磐筒女所生之子經津經津、此云賦都。

 主神、是將佳也。 時有天石窟所住神、稜威雄走神之子甕速日神、

 甕速日神之子熯速日神、熯速日神之子武甕槌神。

 此神進曰、豈唯經津主神獨爲大夫、而吾非大夫者哉。

 其辭氣慷慨。 故以即配經津主神、令平葦原中國。

 二神、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、則拔十握劔、倒植於地、

 踞其鋒端、而問大己貴神曰、高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。

 故先遣我二神、駈除平定。 汝意何如。 當須避不。

 時大己貴神對曰、當問我子、然後將報。

 是時、其子事代主神、遊行在於出雲國三穗三穗、此云美保。之碕。

 以釣魚爲樂。 或曰、遊鳥爲樂。 故以熊野諸手船、亦名天鴿船。

 載使者稻背脛遣之。 而致高皇産靈尊勅於事代主神、且問將報之辭。

 時事代主神、謂使者曰、今天神有此借問之勅。

 我父宜當奉避。 吾亦不可違。 因於海中、造八重蒼柴柴、此云府璽。

 籬、蹈船枻船枻、此云浮那能倍。而避之。

 使者既還報命。



 是(こ)の後(のち)に、高皇産靈尊(たかむすびのみこと)、
 
 更(さら)に諸神(もろかみ)を會(つど)へて、

 當(まさ)に葦原中國(あしはらのなかつくに)に遣すべき者(ひと)を

 選(えら)ぶ。

 僉(みな)曰さく、

  「磐裂(いはさく)磐裂、此をば以簸娑窶(いはさく)と云う。

   根裂神(ねさくのかみ)の子(こ)磐筒男(いはつつのを)・

   磐筒女(いははつのめ)が生(う)める子(こ)經津(ふつ)經津、

   此をば賦都(ふつ)と云ふ。

   主神(ぬしのかみ)、是(これ)佳(よ)けむ。」とまうす。

 時(とき)に、

 天石窟(あまのいはや)に住(す)む神(かみ)、

 稜威雄走神(いつのをはしりのかみ)の子(こ)

 甕速日神(みかのはやひのかみ)、

 甕速日神の子(こ)熯速日神(ひのはやひのかみ)、

 熯速日神の子()武甕槌神(たけみかづちのかみ)有(ま)す。

 此(こ)の神進(すす)みて曰(まう)さく、

  「豈(あに)唯(ただ)經津主神(ふつぬしのかみ)のみ

   大夫(ますらを)にして、

   吾(やつかれ)は大夫にあらずや」とまうす。

 其の辭(ことば)氣(いきざし)慷慨(はげ)し。

 故(かれ)、以(も)て即ち、經津主神に配(そ)へて、

 葦原中國(あしはらのなかつくに)を平(む)けしむ。

 二(ふたはしら)の神、是(ここ)に、出雲國(いづものくに)の

 五十田狹(いたさ)之小汀(をはま)の降到(あまくだ)りて、

 則ち十握劔(とつかのつるぎを拔(ぬ)きて、

 倒(さかしま)に地(つち)に植(つきた)てて、

 其鋒端(さき)に踞(うちあぐみにゐ)て、

 大己貴神(おおあなむちのかみ)に問(と)ひて曰(のたま)はく、

  「高皇産靈尊(たかむすびのみこと)、

   皇孫(すめみま)を降(くだ)しまつりて、

   此の地(くに)君臨(きみとしたま)はむとす。

   故(かれ)、先(ま)づ我(われ)二(ふたり)の神を遣(つかは)して、

   駈除(はら)ひ平定(しず)めしむ。

   汝(いまし)が意何如(こころいかに)。

   避(さ)りまつらむや不()や」とのたまふ。

 時(とき)に大己貴神對(こた)へて曰(まう)さく、

  「當に我(わ)が子(こ)に問ひて、

   然(しかう)して後に報(かへりことまう)さむ」とまうす。

 是の時に、其の子事代主神(ことしろぬしのかみ)、

 遊行(ある)きて出雲國の三穗(みほ)三穗、

 此をば美保(みほ)と云ふ。の碕()に在(ま)す。

 釣魚(つり)するを以て樂(わざ)とす。

 或(ある)いは曰(い)はく、

 遊鳥(とりのあそび)するを樂(わざ)とすといふ。

 故、以熊野(くまの)の諸手船(もろたふね)、

 亦(また)の名は天鴿船(あまのはとふね)。

 を似て、使者(つかひ)稻背脛(いなせはぎ)を載(の)せて遣(や)りつ。

 而(しかう)して高皇産靈尊(たかむすび)の勅(みことのり)を

 事代主神に致(いた)し、

 且(かつ)は報(かへりまう)さむ辭(ことば)を問ふ。

 時に事代主神、使者に謂(かた)りて曰はく、

  「今天神(いまあまつかみ)、

   此借問(と)ひたまふ勅(みことのり)有(あ)り。

   我が父(かぞ)避(さ)り奉(たてまつ)るべし。

   吾(われ)亦、違(たが)ひまつらじ」というふ。

 因(よ)りて海中(うみのなか)に、

 八重蒼柴(やへのあをふし)柴、此を府璽(ふし)と云ふ。

 籬(かぎ)を造(つく)りて、

 船枻(ふなのへ)船枻、此をば浮那能倍(ふなのへ)と云ふ。

 を蹈(ふ)みて避りぬ。

 使者(つかひ)、既(すで)に還(かへ)りて報(かへりこと)命(もう)す。

 『日本書紀』

 巻第二 神代 下 第九段(4)
 
 故大己貴神、則以其子之辭、白於二神曰、我怙之子、既避去矣。

 故吾亦當避。

 如吾防禦者、國内諸神、必當同禦。

 今我奉避、誰復敢有不順者。

 乃以平國時所杖之廣矛、授二神曰、吾以此矛卒有治功。

 天孫若用此矛治國者、必當平安。

 今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。

 隅、此云矩磨泥。

 言訖遂隱。

 於是、二神、誅諸不順鬼神等、

 一云、二神遂誅邪神及草木石類、皆已平了。

 其所不服者、唯星神香香背男耳。

 故加遣倭文神建葉槌命者則服。

 故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。

 果以復命。

 于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、

 覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。

 皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。

 且排分天八重雲、稜威之道別道別而、

 天降於日向襲之高千穗峯矣。

 既而皇孫遊行之状也者、則自槵日二上天浮橋、

 立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、

 此云羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志。

 而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毘陀烏。

 覓國、此云矩貳磨儀。

 行去、此云騰褒屢。


 故(かれ)、大己貴神(おおあなむちのかみ)、

 則(すなはち)ち其(そ)の子の辭を以(も)て、

 二(ふたはしら)の神(かみ)に白(まう)して曰(まうしたま)はく、

  「我(わ)が怙(たの)めし子(こ)だにも、

   既(すで)に避去(さ)りまつりぬ。

   故(かれ)、吾(われ)亦(また)避(さ)るべし。

   如(も)し吾防禦(ほせ)かましかば、

   國内(くにのうち)諸神(もろかみたち)、

   必(かなら)ず當(まさ)に同(おなじ)く禦(ほせ)きてむ。

   今(いま)我(われ)避り奉(たてまつ)らば、

   誰(たれ)か復(また)敢(あ)へて

   順(まつろ)はぬ者(もの)有(あ)らむ」とまうしたまふ。

 乃(すなは)ち國(くに)平(む)けし時に

 杖(つ)けりし廣矛(ひろほこ)を以(も)て、

 二(ふたはしら)の神に授(たてまつ)りて曰(のたま)はく、

  「吾(われ)此(こ)の矛(ほこ)を以て、

   卒(つひ)に功治(ことな)せること有(あ)り。

   天孫(あめみま)、若(も)し此(こ)の矛(ほこ)を用(も)て、

   國を治(し)らば、必(かなら)ず平安(さき)くましましなむ。

   今我當(まさ)に百足(ももた)らず八十隅(やそくまで)に、

   隱去(かくれ)れなむ」とのたまふ。

 隅、此(これ)をば矩磨泥(くまで)と云ふ。

 言訖(のたまふことをは)りて遂(つひ)に隱(まか)りましぬ。

 是(ここ)に、二の神、諸(もろもろ)の順(まつろ)はぬ

 鬼神等(かみたち)を誅(つみな)ひて、

 一(ある)に云はく、二(ふたはしら)の神遂(つひ)に

 邪神(あしきかみ)及(およ)び草木石(くさきいし)の類(たぐひ)を

 誅(つみな)ひて、皆(みな)已(すで)に平(む)けぬ。
 
 其(そ)の不服(うべな)はぬ者(もの)は、

 唯星(ただほし)の神は香香背男(かかせを)のみ。

 故(かれ)、加(また)倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはつみのみこと)を

 遣(つかは)せば服(うべな)ひぬ。

 故(かれ)、二(ふたはしら)の神天(あめ)に登(のぼ)るといふ。

 倭文神、此をば斯圖梨俄未(しとりがみ)と云ふ。

 果(つい)に復命(かへりことまう)す。

 時(とき)に、高皇産靈尊(たかむすびのみこと)、

 眞床追衾(まとこおふすま)を以て、

 皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(すめみまあまつひこほのににぎのみこと)に

 覆(おほ)ひて、降(あまくだ)りまさしむ。
   
 皇孫、乃(すなは)ち天磐座(あまのいはくら)、天磐座、

 此をば阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云ふ。

 を離(おしはな)ち、

 且(また)天八重雲(あめのやへぐも)を排分(おしわ)けて、

 稜威(いつ)の道別(ちわ)に道別(ちわ)きて、

 日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯たかちほのたけ)に

 天降(あまくだ)ります。

 既(すで)にして皇孫(すめみま)の遊行(いでま)す状(かたち)は、

 槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、

 浮渚在平處(うきじまりたひら)に立(た)たして、

 立於浮渚在平處、

 此をば羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志(うきじまりたひらにただし)と云ふ。

 膂宍(そしし)の空國(むなくに)を、

 頓丘(ひたを)から國(くに)覓(ま)ぎ行去(とほ)りて、

 頓丘、此をば毘陀烏(ひたを)を云ふ。

 覓國、此をば矩貳磨儀(くにまぎ)を云ふ。

 行去、此をば騰褒屢(とほる)を云ふ。

 『日本書紀』

 巻第二 神代 下 第九段(5)

 到於吾田長屋笠狹之碕矣。

 其地有一人。

 自號事勝國勝長狹。

 皇孫問曰、國在耶以不。

 對曰、此焉有國。

 請任意遊之。

 故皇孫就而留住。

 時彼國有美人。

 名曰鹿葦津姫。

 亦名神吾田津姫。

 亦名木花之開耶姫。

 皇孫問此美人曰、汝誰之女子耶。

 對曰、妾是天神娶大山祇神、所生兒也。

 皇孫因而幸之。

 即一夜而有娠。

 皇孫未信之曰、雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。

 汝所懷者、必非我子歟。

 故鹿葦津姫忿恨、乃作無戸室、入居其内、

 而誓之曰、妾所娠、若非天孫之胤、必當焦滅。

 如實天孫之胤、火不能害。

 即放火燒室。 始起烟末生出之兒、號火闌降命。

 是隼人等始祖也。

 火闌降、此云褒能須素里。

 次避熱而居、生出之兒、號彦火火出見尊。

 次生出之兒、號火明命。

 是尾張連等始祖也。

 凡三子矣。

 久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩。

 因葬筑紫日向可愛可愛、此云埃。

 之山陵。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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