2014年11月8日土曜日

大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(4)


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(4)≫

  以上のような環境を知れば、

 江戸にインドラ神が鎮座していてもおかしくないだろう。

 和名類聚抄には「荏原郡桜田郷」が載る。

 その地域は千代田区南部から品川区まで広い範囲に推定されている。

 後には現在の皇居の濠でる桜田濠や桜田門がある辺りで、

 徳川家康による江戸城はその桜田郷を含んだ土地に建設された。

 そのため同地にあった桜田神社が

 現在の港区西麻布三丁目へ鎮座替えになったのである。

 築城のために同じく移転したのが日比谷神社で、

 現在新橋四丁目に鎮座している。

 桜田神社の現在の主祭神は平成の初めまで天照皇大神、

 豊受大神であったが、平安時代以前の古代においては

 塩土老翁神ないし猿田彦神である

 インドラ神を祭祀していたと考えられる。

 その信仰により江戸郷は誕れたのである。

 平安十年頃、同社の神職は主祭神を稲荷神社に依拠した

 佐田彦神及び大宮能売神へ改祝した。

 一方の日比谷神社も、

 「日比谷」が戦国時代の史料にみえるのを初見とするが、

 「比々谷本郷」「比々谷郷」とある。

 「サクラダ」は śakra-deva の転訛であり、

 「比比」は原語が vibhu 「支配者、主権者」を表わし、

 双方ともインドラ神を指すものである。

 現在日比谷公園に続いて内幸町があるが、

 ここは江戸期には中央区、港区にまたがる幸町の一部であった。

 「幸」は「サチ」  śaci の転訛とみられ、

 インドラ神か、その神妃の別称である。

 永田(ながた「エイダ」)町は

 江戸時代永田馬場などとの記録があるが、

 太田道潅が日枝山王社を武蔵川越から勧請する

 以前からあった地名とみられ、

 それは aidha(aindra) でインドラ神と係わる。

 日比谷神社のすぐ近く新橋五丁目に

 塩土老翁神を祀る塩竃神社が鎮座するのも興味深い。

 このように江戸とは塩土老翁神であるインド神の鎮座地である。

  東京の中心江戸城の周辺の歴史の深層に

 サンスクリット語文化があることを述べておきたい。

 永田町の西方に赤坂及び元赤坂がある。

 この「アカサカ」は ākāsa に由来する地名で、

 「虚空」をいい形而上学的には「空(くう)」を表わす」。

 空(くう)は第八章でインドの六派哲学のうち

 ヴェーダンタ派の思想で述べた caturtha 、

 つまり自我(アートマン)の第四位に対応する。

 この第四位の用語を用いて

 赤坂である「空虚」を表わしたのが四谷で「空谷」

 つまり、「涸谷」を意味する。

 四谷駅の辺りから赤坂方面にかけては谷合で、

 水のない「からの谷間」である。

 空虚の状態を日本語で「うつけ」というが、

 四谷に続く市谷(いちがや)は

 この「うつけ谷」が訛ったものである。

 麹町名は大田区の糀谷と同じく糀町とも表記された。

 インドラ神の別称 kauśika 

 あるいはインドラ神の雷電 koti に由来すると考える。

  「赤坂」と「空虚」の組合せは、

 奈良県天理市和爾町に赤坂彦神社があり、

 その東奈良市内に仏教化された

 名称「虚空蔵町」がある例がある。

 同社は神名帳大和国添上郡に載る

 「和尓赤坂比古神社大」である。

 また、熊本県荒尾市大島の四ッ山神社は

 「虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれているが、

 「四ッ」が cutartha である「虚空」であることが解かる。

 栃木県の矢板市から大田原市を流れる川は箒(ほうき)川という。

 本書の「はじめに」において取り上げた

 「信濃風土記」逸文の「箒木」に係わる川名で

 「ほうき」が「空しいこと」の代名詞であることを述べたが、

 箒川名もまた「空、虚空」川である。

 矢板市の上伊佐野の川辺近くに「赤坂」地名があるばかりでなく、

 その上流塩原町へ遡ると赤川となり、

 その水源の沢を空沢という。

 箒川は大田原から那須郡の湯津上村、小川町、馬頭町の境界で

 那珂川に合流する。

 那珂川は黒磯町の那須高原から流れ出る水流を全て集めて来る。

 双方とも「四位」に由来し空虚の意味であり、

 「那珂」はまたサンスクリット語の 

 nāka の音写で「天空、大空」を意味し、

 箒の内容に一致するものである。

 同川は茨城県に入り那珂郡を形成し、

 ひたちなか市と大洗町の境界をなして太平洋に流れ入る。
 
 河口の北岸ひたちなか市には赤坂の地名が残る。

  東京都には江戸川区がある。

 その名は茨城県の境町で分流する江戸川に依る。

 この川名は史料では江戸の物資輸送の水路であることから

 銘づけられたとするが、

 その基層にはこの流域に

 インドラ神が祀られていたことによるのである。

 インドラ神の鎮座地として

 ここで紹介するのは千葉県野田市桜台の桜木神社である。

 同社はかって稲荷神社で平安時代の創立時に

 社地に桜の大木があったことにより、

 「桜の宮」と称されたという社伝を持つ。

 しかし、この野田最古の神社のある桜台遺跡からは

 硬玉製勾玉管玉、台形様石製品、剣先様装飾品、半円状石製品、

 玉杖などの祭祀に冠する遺物が発掘されており、

 4世紀から何らかの信仰の地であったことが明らかになっている。

 地名を考察すると、

 「桜台」は śakra-deva で桜田と祖語がおなじである。

 市名「野田」は nātha の音写で

 「保護者、支配者、主」でインドラ神を指す。

 さらに同社近郊にある「中野台」は贍浮提である。

 両地名とも桜台に近接しており関係が知られる。

 同市の東南の隅瀬戸地区に猿田彦神社が鎮座しており、

 「瀬戸」は勢田、瀬田と同儀 sata で「百」を意味する

 インドラ神の尊称に係わる。

 桜木神社の現在の祭神には

 猿田彦神も塩土老翁神も含まれていないが、

 稲荷神社の本宮である

 京都府の伏見稲荷大社には

 猿田彦神及び天鈿女命である大宮能女神が祀られており、

 稲荷信仰と全く関係がないわけではない。

  江戸川は、古くは太田河と表記され「ふとゐ」と呼ばれた。

 平安時代承知2年(835年)の

 「類聚三代格」に「下総國太田河」とあるのが初出で、

 「更科日記」に「下総國と武蔵國のさかひにてふとゐかは」とみえる。

 太日(ふとゐ)は贍浮提洲の「浮提」の転訛で

 伊勢の浦田、インドラ神の天界を表わす。

 このような状況から4世紀の太初において

 インドラ神に係わる信仰が行われたと推察されるのである。

 太日河名はインドラ神信仰に依りつけられたものと考える。

 同神は仏教において帝釈天といわれるが、

 葛飾区の柴又帝釈天はこの流域に

 インドラ信仰が実在することを示している。

 徳川家康が関東へ移封されて来てから

 江戸の経済は拡大を続け、

 近郊から多くの物資が運び込まれるようになり、

 太日河は江戸への運河の役目を果たすようになったため、

 その名を江戸川と改称されたという。

 江戸川の東京湾への河口の河口の東は現在船橋市であるが、

 そこに船橋大神宮が鎮座する。

 同社は延喜式神名帳の「下総國葛飾郡」の載る

 「意富比神社」である。

 この「意富比」については本義が明らかにされていない。

 神名帳は「イフヒ」と訓音をつけているが、

 後の「埼玉・鹿島:剣持神の國」の

 稲荷山古墳の鉄剣でも追求するが、

 「意富」は「オホ」で「飫富、太、大」と同音の用語である。

 よって「意富比」は「太日」と表記でき、

 これは太日河の「ふとゐ」である。

 ここで何故「フトイ」と解釈できるかは

 同神宮の鎮座地宮本の地区内に

 「峰台」の小字名があることによる。

 宮本は鎌倉期からみえる地名であるが、

 その地の古名が峰台であったと推測される。

 同社を西方からみると確かに小高い峰の上にある。

 峰台は「フタイ」と読め、「ふとゐ」と殆んど同音である。

 初めに「ふとゐ」があり、

 峰台が当て字(あてじ)とされたものであろう。

 神社名も本来は「ふとゐ」であったと考えられ、

  インドラ神信仰から同神が祀られていた可能性が高い。

 塩土老翁神は

 さらに東北の宮城県塩釜市一森山にも奉祭されている。

 塩釜神社と一般に書かれているが、

 塩竈神社が正式名で、その別宮に鎮座している。

 同社の本殿には武鹿槌神、経津主神が祀られている。

 両神とも後からやってきた祭神で

 先住の祭神は塩土老翁神と考えられる。

 三神の関係は極めて興味深い。

 後の「インドラ神の影」などを参考にして戴きたい。

 塩竈神社は延喜式神名帳には記載されていない神社であるが、

 陸奥鎮護の第一の社とされる。

 鎮座する一森山はすぐ南の多賀城市丸山と同じく

 meru(sumeru) 、つまり、

 インドラ神の住む山名に係わると考えられる。

 近郊の利府町の加瀬、多賀城市の笠神は

 鹿児島県金峰町の花瀬、加世田市名と同様に

 「光輝」を意味する kāsa に依る。

 多賀城市の桜木、栄、境山なども śakra に係わるだろう。

 そして何より「塩竈(塩釜)」名は

 インドラ神が住む天界 svarga あるいは svarga-loka

 に由来するのではないかと推測れるのである。

 紀元前3000年紀に西アジアに誕れたインドラ神は、

 極東の日本の東北の一隅にまで「東方の守護神」として

 やって来て鎮座しているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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