2014年11月4日火曜日

大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(2)


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 ※出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪大江戸:塩土老翁(塩椎神)の鎮座地(2)≫

  インドラ神は、また古代日本にもやって来た。

 その最古の鎮座地の一つが奈良県桜井市である。

 「桜」はインドラ神の別称サカラ śakra に依る」ものであり、

 三輪山の大神神社の祭神、大物主(おおものぬし)大神は

 「デーブス」でインドラ神の尊称「天空の主」を表わす

 divas-pati を表わす。

 divas はまた divasa と同義で「天空、日、昼」を表わす。」

 神武天皇に

 「東方に美しい国があって、そこは青山が四周を巡っている。」と

 塩土老翁が紹介したのはこの大和であった。

 同神が大和に深い係わりのあることを示している。

 桜井市桜井には御幸田町がある。

 「幸」は「サチ」で、これはインドラ神の力を表わす

 śaci でインドラ神の称号であるが、

 インドラ神の神妃インドラニーの別称シャティを伴っている。

 「幸田」は śaci-devu の転訛となる。

 桜井の南の地区浅古(あさこ)は

 「セコ」で śakra が漢訳で「釈、釈加、帝釈」と表記されるように

 桜井と同根である。

  瓊瓊杵尊の天降り神話に係わる塩土老翁の伝承にある

 「吾田長屋の笠狭」の吾田は「アタ」で、

 サンスクリット語の adhi- に依るもので、

 「上に、上方に」の意味であるが、

 ここでは adhi-pa (支配者)、 adhi-deva (最高神)の語義で

 インドラ神を表わす、インドラ神の称 sur-adhi-pa は

 「神々の首長」である。

 吾田は現在鹿児島県日置郡金峰町宮崎の阿多に当たる。

 同町内にの花瀬は、加世田市名と同根で

 「光を放つ、輝く」の意味である kasati の転訛である。
 
 阿多の字名松田、金峰町と加世田市の境を流れる万之瀬川、

 その川に接する加世田市の益山や万世は、

 インドラの神の住むメル山(須弥山)の

 Indra-mandia (インドラの住居)に由来すると考えられる。

 松田南に鎮座する和田利神社は vadhar 名の転訛であり、

 インドラ神が祭祀されていたとみられる。

 vadhar は「飛び道具」で、特にインドラ神の武器「金剛杵」を表わす。
 
 この地域にはインドラ文化に影響された支配者がいたとみられ、

 そこに記紀神話の謂う天孫降臨以前に既にその勢力があったのである。

  インドラ神は東方の守護神であるが、

 大和国の東方は三重県の伊勢である。

 この「イセ」はサンスクリット語の支配者を意味する

 iśa の転訛でもある。

 鳥羽市に堅神町があり、堅神神社が鎮座する。

 「カタ」は伊勢湾中の島神島で八代神社の祭事として

 例年1月1日に行われるゲッター祭の「ゲッター」とも同義で、

 Indra-ketu (旗、光輝)に由来する。

 鳥羽地区内の賀多神社も堅神である

 インドラ神を祀っていたものとみられる。

 小浜町にある土宮神社の「土」は塩土神に対応するが、

 土宮は伊勢市豊川町の豊受大神宮(外宮)の境内社として

 鎮座する祭神のうちに土御祖(つちみおや)神が祀られており、

 天照皇大神宮(内宮)の摂社土御祖神社祭神である。

 「止由気宮儀名帳」によると宮地神である。

 現在外宮山田原の地主神として尊崇されている。

 「土」は宇治土公(うじつちこう)氏の名と通じるが、

 同氏は伊勢市宇治浦田町の猿田彦神社の奉祭氏族で、

 明治時代までもその役目を継承してきた。

  猿田彦神は古事記に猿田毘古神と表記され、

 邇邇芸命(『日本書紀』の瓊瓊杵尊)が天降りしようとした時、

 天の八衢にいて、天宇受売神(天鈿女命)に問わせたところ、

 「わたしは同神で、名を猿田毘古神という。

  ここに出ていたのは、

  天神の御子が天降りされると聞いたので

  御先導きをして奉りたいとお迎えに参ったのです」と述べた。

 その性格は塩土老翁と同じ「導き」の役柄である。

 このことより同神は道祖神と結びつけられている。
 
 天宇受売神は

 後に猿田毘古の名を負って猿女君と称されることとなる。

 『古事記』は

 猿田毘古神が阿邪訶に坐す時漁をしていて

 比良夫貝に手を咋い合されて海塩(潮)に沈み溺れてしまったと語る。

 阿邪訶は現在の松阪市大阿坂町で阿射加神社が鎮座しており、

 猿田彦神を祭神といしている。

  猿田彦は塩土老翁神とその性格で「導き」に要約され共通する。

 実は「サルタ」は

 サンスクリット語の surendra,suradhpa に伝拠する用語でである。

 双方とも「神々の首長」を意味し、インドラ神の呼称である。

 Sur-endra(indra),sur-adhi-pa で、

 sur が「神の」、 adhi は吾田(阿多)と同じで「上方の」、

 pa は pati と同じで「祖、父祖」を表わす。

 猿田彦神、塩土老翁神が同じ神であることは明らかである。

 猿田彦神社のある伊勢市宇治浦田は

 伊勢神宮の内宮・外宮の中間にあり、その重要さが窺われる。

 同神の後裔大田命が倭姫命に神宮の宮地を献上したと伝えられ、

 伊勢の地の古い勢力の中心であったとことを示す。

 伊勢の国に堅神、土宮とインドラ神(塩土老翁神)が

 祭祀されていたことは明らかである。

 浦田の隣りの桜木町名は śakra に依るが、

 「浦田」にも重大な秘密が隠されている。

 それがインドラ神の住居であるメル山(須弥山)がある。

 Jambu-dvipa を表わしているからである。

 同語が漢訳されると「蒲桃」と表記される。

 蒲桃(ほとう)は浦田(ほた)と近似する。

 その音訳は

 贍部州(じゅんぶしゅう)、閻浮提地(えんぶたいち)と表わされ、

 「浮提」が蒲桃、浦田に対応する。

 また、伊勢市宇治浦田町に猿田彦神社が鎮座し、

 その主祭神である。

 猿田彦神は道祖神と結びつけられていることを述べたが、

 その他白鬚明神、椿大神、庚申としても考えられている。

 dvipa は本来「河の沙洲、島」であるが、中央の地を表わし、

 浦田の周辺の地名、中村町、中之切・中之町は

 その概念を地名としたものであろう。

 ただし、「ナカ」を nāka とも取れ、

 その場合は「天、天空」の意味で 

 nāka-pati が「天主、神」 となり、

 この用語を転訛させたとも考えられる。

 どちらにしてもインドラ神に纏わる。

 さらに鳥羽「トバ」も dvipa の転訛とみられ、

 志摩郡名も「洲、島」で、つまるところの贍部州を表わしている。

 鳥羽市の土宮神社のある小浜町の山名

 大日和山も dvipa の音訳である。 

 浦田の西側の地区名勢田(せた)はインドラ神を称するのに

 śata-koti (インドラ神の雷電) 、

 śatadhrti (同)、

 śata-katatu (百倍の供儀を求める)など多くの

 śata (百の意味)が用いられており、

 インドラ神の代名ともなっており、

 「セタ」はその音写である。

 神島はその形が亀に似ていることから亀島とも呼ばれたが、

 「内容儀式帳式帳」「神宮雑例集」などでは、「歌島」と表記され、

 平安・鎌倉時代には「カトー」と呼ばれていたことを覗わせる。

 八代神社の祭事であるゲッター祭も本来「ケタ」であったと考えられる。

 鳥羽市の堅神名、また八代神社名は明治6年に改称されたもので、

 それまでは白鬚明神であった。

 同神社は先述のように猿田彦神の別称である。

 八代神社は九州熊本県八代市にその本社が鎮座する。

 またの名を妙見宮といい、

 北極星の光輝を神格化した古社である。

 また一つの呼称北方宮は ketu (光明)によるもので、

 周囲の町名月町にもそれは転訛されている。

 神島の「ケタ」も ketu で光輝であるが、
 
 白鬚明神であるインドラ神の「旗、標識」印に係わる。

 インドラ神は大きな首輪をいつも着けている。

 ゲッター祭の直径120センチメートル程度に

 グミの木を輪に作り麻を巻きつけた日輪は、

 その首輪を表わし、インドラ神の象徴と考えられる。

 信者たちが竹棹竿により

 その日輪を高々と持ち上げるのが祭事のクライマックスである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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