2014年11月26日水曜日

愛宕③


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》江戸の古代を解明する
     ―地名が語る愛宕山、六本木周辺の始まり―

 「愛宕下町一丁目」(現)港区新橋三丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、烏森町の南にあたる。

 幕末には上野伊勢崎藩酒井家上屋敷・御所院番頭大島家屋敷・

 御小姓番頭水野家屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、寛永年間(1624-44)より毛利長門守下屋敷・

 大島茂平屋敷をはじめ五家の屋敷地として割られていた。

 元禄(1688-1704)以降能勢・大島・高木の三家の屋敷地となり、

 大島家以外は拝領主の変更はあるが

 屋敷割は幕末まで変わらなかった(寛永江戸図・沿革図書)

 愛宕下とは愛宕山の麓の意で愛宕の下ともいう。

 愛宕山の北東、新(あたら)シ橋の南にあたる武家地、

 藪小路・三斉小路・佐久間小路・田村小路・秋田小路・

 鎧小路辺りから烏森辺りまでを愛宕下と呼んだ

 (語府内備考・再訂江戸惣鹿子新増大全)。

 また愛宕下町の西を南北に通る大通りを愛宕下大名小路という。

 江戸の町には大名小路とよばれた所がいくつかあり、

 ほかと区別するために愛宕下を冠りした。

 明治以降には赤煉瓦通ともよばれていた(芝区誌)。

 明治維新後は華族の保科家や同池田家の邸宅があった。

 (東京府志料)。


 「愛宕下町二丁目」(現)港区新橋三-四丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町一丁目の南にあたる。

 愛宕下大名小路の東、日陰町通の西に位置し、

 幕末には長門清末藩毛利家上屋敷・備前岡山藩松平家添屋敷・

 近江水口藩加藤家中屋敷・交代寄合本堂家屋敷・

 御先鉄砲頭本多家屋敷が置かれていた。

 寛永江戸図に本堂伊勢・大島久三郎らの屋敷がみられる。

 以後も大名・旗本の屋敷地が置かれ、幕末まで武家地であった。

 (沿革図書)

 明治維新後華族本堂家の邸宅や勧学義塾など置かれていた。

 大名小路は明治以降赤煉瓦通とよばれており、

 当町に建設された赤煉瓦造の勤工場に由来するという
 
 (芝家具の百年始史・芝区誌)。

 田村町に接する西側は明治に入ると洋家具の製造が盛んとなった

 芝家具とよばれ広く知られている。

 日陰町通側は明治維新前より

 伽羅湯・書籍・毛抜・剃刀・古着屋・剣術道具・錦絵などを

 商う店が多く、維新後も洋服店・古着屋などが軒を連ねる裏小路であった

 (「芝区誌」「港区史」など)。


 「愛宕下町三丁目」(現)港区新橋四-五丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下町二丁目の南に続く。

 愛宕下大名小路の東側一角を占め、幕末には常陸下妻藩井上家上屋敷・

 寄合大久保家屋敷・御目付遠山家屋敷などが置かれていた。

 寛永江戸図では本多因幡、寛文新版江戸図絵では

 掘飛騨・桑山修理の屋敷が割られている。

 以降も大名・旗本などの屋敷が置かれ、

 江戸期を通して武家地であった。

 天保元年(1830)の図以降北東部にみえる遠山金四郎は

 講談等で名奉行として知られる遠山景元(沿革図書・屋敷書抜など)。

 明治維新後は華族井上家邸・鳴門学舎などが置かれている。

 愛宕下町二丁目と同様に洋家具製造が盛んであった

 (「芝区誌」「港区史」など)。



 「愛宕下町四丁目」(現)港区新橋五-六丁目

  明治5年(1872)に成立した町で、愛宕下三丁目の南にあたる。

 増上寺の南、愛宕下大名小路の東側に位置し、

 幕末には陸奥仙台藩伊達家中屋敷・大和柳生藩柳生家上屋敷・

 信濃小諸藩牧野家上屋敷が置かれていた。

 江戸期を通して武家地で、

 寛永江戸図には「正宗中やしき」(仙台藩中屋敷)と

 「毛利長門守下やしき」(長門萩藩下屋敷)がみえる。

 仙台藩中屋敷は幕末まで当地に置かれているが、

 萩藩下屋敷は寛文新版江戸絵図ではみられず、

 松平帯刀と伊達兵部少輔の屋敷地となっている。

 松平屋敷地は宝永年間(1704-11) に豊後藩中川家中屋敷となり、

 天保7年(1836)柳生家が拝領し上屋敷とした。

 伊達兵部少輔屋敷地は延宝3年(1675)に収公され

 仙台藩下屋敷となるが、

 元禄8年(1695)相対替により越前丸岡藩有馬家上屋敷となる。

 同上屋敷は文久2年(1862)に八代洲河岸(現千代田区)へ移転し、

 跡地は陸奥泉藩本多家が上屋敷に拝領するが同3年に収公され、

 小諸藩上屋敷となった(屋敷書抜・年録・沿革図書など)。



  仙台藩中屋敷内には塩竃神社があった。

 四代藩主伊達綱村が元禄8年陸奥国一宮塩竃神社の分霊を

 藩邸鎮守のため芝の邸内に勧請したのが始まりで、

 安政3年(1856)に中屋敷に移した。

 同年夏より毎月10日に一般の参詣を許したという

 (武江年表・港区史・新撰東京名所図会)。

 明治維新後には桜川学校(後の桜川小学校)、

 東京美術倶楽部などがあった。

 昭和5年(1930)塩竃神社に付随して造られた

 塩竃公園(現港区立塩釜公園)は

 開園当時区内唯一の町立公園であった(芝区誌)。
 
《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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