2013年12月1日日曜日
坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:16頁
そしてさらにこれは、
いわゆる天孫降臨であったこともわかっているから、
降臨の途中で猿田毘古が出迎える。
猿田は頭音訓(よ)み「サタ」だから、
大隅の最南端に現存する佐多の領主の名乗りとしても合理的である。
これだけ揃うと種子島のサカ=坂井を出発した
天孫集団がサタ=佐多へ上陸したのは、
仲哀天皇9年の2~3月だったことがわかる。
これをさらに詰めると天皇の死の翌月に皇后は小山田(コヤマダ)邑(むら)
「沖縄発音で忌(くや)む田→伊牟田(いむた)」に、
齋宮を建てて、そこで神託を受けている。
壹與は巴利=隼人町にいて、
天皇の死後すぐは福岡へなど行っていない。
この橿日(カシー)宮と小山田邑は隼人町の近くでなければならない。
『魏書倭人章』は伊都~邪馬壹(=隼人)間を「水行10日隆行1月」と書いているし、
当時の建築の遺物をみると天皇の齋宮を建てるには最低1カ月はかかる。
とすればこれは福岡の香椎や同県糟屋郡古賀町の小(オ)山田などではない。
隼人の隣り町・加治木町には今も小(コ)山田が現存しているし、
加治木は南九州発音「カチッ」で
沖縄語の「橿日(カシイ)=カチー」の大隈訛りに一致するから、
3世紀に沖縄出身の壹與らが呼んだ橿日は今の加治木町だとすると、
翌月、小山田に齋宮が建っても自然だが、
佐多から300kmも離れた福岡では、
旅行の日程だけでも40日かかり、
新築した齋宮で翌月、
神托をうけることなど、
とても不可能である。
《坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置》
「坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置」
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