2013年12月3日火曜日
「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:18頁
するとここで新たな疑問が生まれる。
それは『記・紀』双方とも神功皇后は近畿が本拠で、
近畿を出発して九州へ行き新羅へ行き、
近畿へ戻って来て亡夫・仲哀天皇の2皇子・
籠(カゴ)坂王、
忍(オシ)熊王と戦って滅ぼし、
前記の福岡県宇瀰(うみ)で生んだ応神天皇を皇太子にして
「槃余(ハヤ)」を新都にしたと書いていることである。
もちろんこの間題は本講ではすでに、
たびたび取り上げて、
ほとんど解明済みだが、
それを白紙に戻して、
この『記・紀』の記事どおりだと仮定すると、
それなら、
その地域にも
「サカ~サタ」が「逆方向」に分布していなければならない。
ところがそれは上記のコースには全然ない。
強(し)いて取り上げれば
香川県の坂出(さかいで)と
岡山県の西大寺(さいだいじ)をサタ寺と読んだ場合だけだが、
『記・紀』でも神功皇后が
四国から岡山に渡ったという記事はないし四国へも行かないから、
「サカ~サタ」が分布していないという事実は、
壹與=神功皇后が近畿から出て近畿に戻ったというのは、
やはり
「奈良の神武天皇即位の後、奈良朝廷は万世一系なのだ」
と宣伝することに主眼を置いた、
天武天皇史観が創作したフイクションであることと、
九州平定に止(とど)まった壹與の史実を裏書きしているのである。
「たかがサカ~サタの分布ぐらい」と軽視していると、
こんなに有力な『記・紀』の実体証明を失ってしまうことになる、
という一例としても、
この問題をよくご記憶戴きたい。
《「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」》
「「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」」
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