2013年12月10日火曜日
巨大古墳の築造期と高句麗倭国時代
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:25頁
百済・典支王12年 416年、東晋(シン)冊命(さくめい)
「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」
百済・毘有王 4年 430年、宋文帝に、先王の映爵号をうける。
百済・蓋鹵王18年 472年、魏に弗斯(フシ)侯らを派遣して上表、回答なし、恨んで朝貢を絶つ。
高句麗の間諜・道琳(トリ)が取り入って信頼を得ていう。
「城郭不葺(ふかず)、宮室不修(おさめず)、
先王の遺骨も路地に集めて間に合わせ的な墓地に葬っているだけだ。
こんなことは偉大な王のすることではない」。
いわれて蓋鹵王は国民を総動員して
大古墳を作らせて父祖の遺骨を葬った。
この国を挙げての大土木工事で国力を浪費し、
国民の恨みを買ったのを見計らって
高句麗が攻め込んだので蓋鹵は一溜まりもなく敗北し、
哀れな最後をとげた。
朝鮮半島の百済には523年に死んだ武寧王の墓が大きいぐらいのもので、
半世紀前の蓋鹵王製の巨大古墳群など全然ない。
この時の勝者こそ中国地方を西から次第に占領し、
但馬・丹波を経由して
豊島(トヨシま)郡に政権を置いた
高句麗系の新「倭国」なのである。
山口県に入ったのが
長寿王(長州王=巨璉(ふとたま)=太珠(ふとたま)=敏達(びだつ)天皇)、
その弟が橘の豊日(トヨシ)=用明天皇、
その母が蘇我の稲目(いなメ)(猪名女王)、
用命の妹が推古天皇で、これが欽明皇朝だ。
欽明の前の安閑・宣化2天皇は名乗りが継体天皇と全く異なるので、
長寿王の治世年数から敏達のそれを引いた期間に実在した天皇たちなのだ。
《巨大古墳の築造期と高句麗倭国時代》
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