2013年12月5日木曜日
佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:20頁
仁徳天皇陵として周知の堺の大仙陵は、
その陵の主が
「大山祇(おおやまつみ)=大=ウ・山=サン・祇=ギ」で
ウサギと読める天皇だと証言している。
すると仁徳天皇の名乗りの当て字は「大雀」で、
これまでオオサザキと読まれてきたが、
これも大隅語に短縮すると「ウサギ」である。
また御陵と書いてミササギと読むから、
これも
「御=ウ、陵=ササギ」でやはり「ウサギ」 になる。
御陵は大仙陵が巨大古墳として最初に作られたために、
それらの代名詞になったという語源の構造を証言している。
この天皇はいうまでもなく倭の五王の讃だから、
讃もサン、
山もサン、
仙は山の別音センへの当て字。
大山祇は大は淡(オフ)=阿波、山祇(サンギ)=讃岐(サンギ)への当て字、
それは菟狭王(うさギ)・宇佐王と青いても同じく「ウサギ」と読む名乗りだから、
宇佐は彼の出発点。
阿波讃岐は彼の最終本領。
大仙陵はその死後の墓だったのである。
彼は5世紀初めに実在して
中国・宋(劉宋)の永初2年(421年)と元嘉二年(425年)に
宋へ遣使し、その直後に死んでいる。
彼が大分から四国へ渡ったのはそれ以前である。
倭王・武の上表文は
「祖先は自ら鎧兜に身を固めて山川で戦い休む暇もなかった」と書くが、
『日本書紀』にはそんな記事はまるでなく、
その治世年数も信用できないので、
これ以上の詳細はわからないが、
このサカ~サタば疑いなく倭王・讃当時のものだと断定できる。
《佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡》
「佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡」
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