2013年12月12日木曜日

対岸だった堺と佐太。それ以後の乱れ


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録30:27頁

 こうしたことから、本来なら興がはいる天皇の位置に、

 允恭とその皇子の安康が置かれて、

 その安康の記事に、

 息子に殺された蓋鹵のパロディが加えられた。

 そして允恭は兄弟相続という形を取らざるをえなかった。

 こうした現実の痕跡が大学講義録28の地図に見るような

 サカ~サタの乱れとなって残ったのである。

 本来なら倭の五王の順位どおり、

 興=河内から武=タケシ=高市(奈良県)へ行くはずの

 サカ~サタが、現実には大きく乱れている。

 堺(サカイ)のサカに対応する守口のサタは、

 和泉=イズミ=倭済(イズミ)から河内=興の北端に飛んだ後、

 次のサカは丹波に迷い込み、サタは東西を逆行して、

 はるか西の出雲に飛んでいるのである。

 まず堺と守口のサカ~サタから考えてみよう。

 私の親友・梶山彦太郎氏の画期的な研究で明かになった

 「河内潟(がた)」が下図のようにあって、

 いま大阪城や高津(こうづ)神社のある上町(うえまち)台地が

 南北に半島状に突出していただけで、

 生駒山山麓(いこまやまさんろく)の八尾(やお)市あたりまで大阪湾になっていた。

 守口市の佐太は今は淀川より南にあるが、

 これは明治42年完成の新淀川改修(下図右)の結果であって、

 古代には旧淀川の線が海岸で、

 堺から見ると北岸の岬だったのである。

 だからこの堺~佐太も、

 港と港を結ぶ相対的な目標点だったのであって、

 変貌して陸続きになってしまった現在の奇妙さは、

 時の流れによって生まれた幻覚にすぎない。

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