2013年12月16日月曜日
百舌鳥耳(モズミ)原皇朝の滅亡と佐太大神の関係
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:31頁
ではその後、今の京都市嵯峨(サガ)から、
はるかな島根県の佐太まで、
西へ逆行しているように見えるのは何故か?、
誰の時の遺跡か?検討してみよう。
『三国史記』の「高句麗本紀」をみると、
長寿王の63年9月、
「長寿王が3万の軍をひきいて百済を攻め、
百済王・慶(蓋鹵王・慶司)を殺し、
男女8000人を捕虜にした」と書く。
この百済が仁徳天皇陵のある百済(モズミ)で、
今の堺市百舌鳥耳(モズミ)原なのは、
もうよくご存じの通りだから、
前ページの興の弟・武が後継者になった敗戦である。
その時、
武は東に聳える山地の奈良県に逃げ込んだのだから、
方角違いの京都へは行っていない。
では誰が行ったのか?。
それは堺からみて北の占領地「佐太」を
領地にもらった人物以外にありない。
彼は蓋鹵王が敗死したと聞くや、堺から遠い北の地方へ逃げた。
そこが京都の嵯峨である。
しかしそこにも長くは居られず、さらに遠くへ移住した。
その移住先が出雲の「佐太」だった。
そこに祭られた彼が「佐太の大神」と呼ばれるのは、
彼が「佐太の太守(オオカミ)」だったからである。
嵯峨は余り後世のものではありえない。
百済(モズミ)王家が滅んだ
高句麗長寿王63年(475年)の事件の直後でないと、
このサカ~サタの伝統を継いだ倭王家の後継者はいなくなる。
現実に出雲以後しばらく絶えて、
次は大化改新以後に復活しているが、それは今は余談になる。
《百舌鳥耳(モズミ)原皇朝の滅亡と佐太大神の関係》
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