2013年12月8日日曜日

意外な原因=倭王・興を除外した『記・紀』


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録30:23頁

 後の方を考えると、その後また、

 堺と守口市の佐太とサカ~サタが実在するから、

 この習慣がなくなったのではない。

 地理的にサカとサタの設定ができなかったのだとしていいが、

 そうとばかり言いきれないものがここにある。

 それは先に大学講義録27の26頁で見た

 『宋書』の倭の五王系譜と」

 『記・紀』系譜とが一致しない点である。

 それをさらに詳しく、親子兄弟関係を比較してみると、

 讃の弟が珍だが、仁徳の次の履中は弟ではなく太子だ。

 3番目の済は珍が立って18年後に遣使するが、

 親子兄弟関係をいっさい口にしないので、珍との関係はわからない。

 ところが『記・紀』では履中の弟が反正天皇であると書く。

 次の興は済の子である。

 ところが允恭(インギョウ)天皇は反正天皇の弟だから倭王・興ではない。

 次の安康天皇も、その允恭天皇の第二子だから、済の子ではない。

 だから興は允恭でも安康でもない。

 『宋書』の記事を信じるかぎり、

 『記・紀』は倭王・興について何も書かないということになる。

 言い換えれば仁徳天皇の子孫は反正天皇までで絶えていて、

 その子の興に当たる人物を書いていない。

 しかし私たちはその興が誰だったかを知っている。

 その人物こそ巨大古墳を造った

 百済(モズミ)・蓋鹵(コウロ)(蓋歯(コウチ))王だった。

 彼こそ済の子だったが、
 
 『日本書紀』は彼を除外して、

 代わりに叔父の允恭とその子の安康を正統の天皇だとしているのである。

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