2013年9月8日日曜日
明らかに2皇朝が並立していた証拠
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:20頁
『古事記』は仁賢天皇以後は系譜だけで、歴史は全く書いてない。
712年に完成したはずの歴史書『古事記』が
「詳しくわかっている近代の歴史」は書かずに空白にしている。
文字通り「古事記」だが、そんな正史は全世界をみても他に例がない。
先に引用した序文のいう「多くの虚偽を加う」どころの騒ぎではない。
全て消去しているのである。
それはなぜか?。
『日本書紀』が書くその消去部分は、国際史として観ると矛盾に満ちている。
『宋書』の478年(劉宋・昇明二年)に倭王・武が立ち、例の上表をしているが、
『南斉書』をみると479年(南斉・建元元年)に
南斉の高帝が倭王・武を鎮東大将軍にしている。
また『梁書』をみると502年(梁・元監元年)に梁の武帝が、武を征東大将軍にしている。
この間23年。治世としては異常な期間ではないし、
『日本書紀』の雄略天皇治世もぴったり23年である。
ところが『天皇年紀』をみると、この間に、
清寧天皇から、顕宗、仁賢、武烈までの4代が入っている。
それは次の継体天皇が507年に即位しているから疑う余地がない。
その治世年を『日本書紀』は清寧5年、顕宗3年、仁賢11年、武烈8年と書く。
合計は27年だが、薨去の年は次の天皇の元年だから4引いて、
その合計はぴったり23年。
明らかに2皇朝が並立している。
それを『日本書紀』は無考えに繋いで、「虚偽を加」えているのである。
M.K(MEMO)
413 438 443 460 478~501
仁徳→履中→反正→允尭・安康→雄略 →継体
23年
478 482 484 494~501
清寧→顕宗→仁賢→武烈 →継体
5年 3年 11年 8年
計27年-4年=23年 (元年=1年)
明らかに2皇朝が並立していた証拠
明らかに2皇朝が並立していた証拠
『My ブログ』
スメル8千年 古代メソポタミア
歴史徒然
ウワイト(倭人):大学講義録
ウワイト(倭人)大学院講義録
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史つれづれ
古代史の画像
ネット歴史塾
古代史ブログ講座
ネット歴史塾
ひねもす徒然なるままに
「終日歴史徒然雑記」
「古代史キーワード検索」
《参考》
古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
最新の考古学的発掘の方法
存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
《装飾古墳》
「装飾古墳」
《考古学の最新発見》
「考古学の最新発見」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿