2013年9月7日土曜日

近畿に巨大古墳が造られた時期は5世紀以後


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:19頁

 珍の次は済で、その次は興だ。

 これも前記拙著『誰が巨大古墳を造ったのか』でご説明したが、

 倭王・興である百済蓋鹵(コウロ)王が高句麗の謀略にかかって

 巨大古墳造営に経済力を消耗し、結局王座を失った。

 これは何時のことだったか?。

 『三国史記』では455年に即位して475年に死んでいる。

 多少の間違いがあるとしても、5世紀後半であることは変わらない。

 奈良県下の大型古墳が造られた時期は、

 最も早くても雄略一族の箸基と隣接するホケノ山古墳以後である。

 紀元前後や3世紀に、神武天皇が東遷したという空想を並べた

 『邪馬台国畿内説」や『東遷説』は、

 まるで史学のイロハも知らない、程度の低い妄想にすぎない。

 埼玉古墳群が造られたのは、さらに後のことである。

 栃木の語源の豊城(トシキ)人彦=都市牛利(トチニュウリ)は、

 3世紀に関東まで大移動したわけではない。

 それらの地名と卑弥呼時代の名乗りの一致には直接の関係はなく、

 それらは直系の先祖の名乗りを記念して地名に選んだものとする他ない。

 ではその時代はいっだったか。

 それは倭国が東遷して近畿に首都を置いた倭の五王時代以後、
 
 すなわち珍以後で、

 当時の東国移住者はすべて五王を中心にした近畿倭国政権の一族だった。

 朝鮮半島の独立国=百済や高句麗が滅びて逃げてきた「帰化人」が、

 大和政権のお情けで東国に居住地を割り当ててもらった地域だと、

 教えてきたのは大ウソである。

 近畿に巨大古墳が造られた時期は5世紀以後

 近畿に巨大古墳が造られた時期は5世紀以後

 『My ブログ』
 スメル8千年 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

0 件のコメント:

コメントを投稿