2013年9月10日火曜日

倭国・日本並立確認。継体はどちらの天皇か?


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:22頁

 大臣たちは「倭国系の王・倭彦王」を天皇にしようと思ったが、

 逃げられたので仕方なく、

 「日本国の王・男大迹(オオト)王=袁本杼(オホド)王」を継体天皇にした。

 と意識して書いてある。
 
 だが倭国と日本国が激戦の後、

 一つなったのは170年後の670年のことである。

 倭国王を必要とした者が日本国王を立てることは絶対にない。

 それに継体天皇が本当に応神天皇の子孫だったとしても、

 それだけで日本国天皇だという証拠にはならない。

 なぜなら神功皇后のモデルが卑弥呼と壹與であるように、

 応神天皇もまた二人いるからである。

 応神という漢風諡号は後世の天平時代のものだから、

 6世孫というのは誉田別(ホムタワケ)の6代目の子孫ということだ。

 『記・紀』は双方とも応神天皇の名の由来を、

 天皇が太子のとき角鹿(ツヌガ)の笥飯(ケヒ)の大神と

 名を取り替えて誉田別と名乗ったと書いている。

 だからそれ以前は大神が誉田別だったのである。

 天皇の名乗りは地位を表わすものだから

 「名替え」とは「譲位」のことである。

 日本は後世の国名で始めは邪馬壹国。

 それも壹與以後だから太子に譲位した大神は倭国の誉田別天皇で、

 それを相続したのは邪馬壹国=のちの日本国の誉田別天皇なのだ。

 継体天皇は、この二人のうちどちらの子孫だったのか?。

 三国の坂名井も笥飯(ケヒ)も今の福井県だとされるから、

 もと倭国王の大神の子孫らしいが、

 ほかに決め手はないのだろうか?。

 倭国・日本並立確認。継体はどちらの天皇か?

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