2013年9月6日金曜日

安康天皇以前はまだ河内皇朝だったと書く『記・紀』


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録27:18頁

 大学講義録18で挙げた反正陵以外の倭の五王陵は、

 応神陵は紀は「明の宮または大隅の宮で崩」と書くだけで陵はなく、

     記は「恵賀(えが)・裳伏(もふし)岡にある」と書く、これは大阪府の応神陵。

 これも『日本書紀』のほうが正直で、

 「明の宮」は、もうよくご存じの通り大隅にあった。

 「大隅の宮」と呼ばれたことも正しい。

 だが在来は、これを大阪市東淀川区にある大隅だとしてきた。

 しかし倭王・讃の父である応神天皇が大阪市に都した可能性は全くない。

 仁徳陵は、紀は「百舌鳥野陵」。 

      記は「毛受(もず)之耳原にある」と書く、堺市だ。

 履中陵は、紀は「百舌鳥耳原陵」。記は割り注に「毛受にある」とだけ書く。

 允恭陵は、紀は「河内長野原陵」。記にはない。

 安康陵は、紀は「菅原伏見陵」。 

      記は「菅原伏見岡」。これは奈良県生駒市である。

 これを見ると、河内王だった倭王・興は允恭天皇で、

 安康天皇はハミ出して、余分な天皇にみえるが、

 この2天皇を徹底して調べると、

 『記・紀』が触れたがらない実に大きな謎が実在し、

 それが解けなければ仁徳天皇朝と倭の五王の歴史は解けないことがわかる。

 しかし今はそれは主題外だから後日に譲るが、

 日本史は世界でも希にみるミステリーの宝庫である。

 その『記・紀』でさえ、

 このように「安康天皇以前は河内皇朝だった」としているのだ。

 安康天皇以前はまだ河内皇朝だったと書く『記・紀』

 安康天皇以前はまだ河内皇朝だったと書く『記・紀』

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