2013年9月27日金曜日
丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:11頁
淡路島から但馬までが現在の兵庫県下にあること。
それは確かに、播磨(ハリマ)=巴利国(ハリマ)、だったことを示している。
そしてさらに上古には、
丹波は兵庫県全域から京都府全域までを包含(ほうがん)していた。
それは当時の大和、
現在の奈良県北部の10倍近い大きさをもつ
超大国だったことを決して見落としてはならない。
だからこそ、その実力が、近畿を支配する政権を手に収めさせたことは、
ごく当然だったとわかるが、それは卑弥呼時代ではなく、壹與時代でもなく、
はるか後世になってからである。
『魏書倭人章』が記録した倭国連合が、仮に近畿圏だったとしても、
卑弥呼が3世紀に奈良にいて、それを支配した可能性は全くない。
では丹波は、いっ?、
倭国(ウワイ)か日本国(ヤマト)か?、
どちらの勢力が占領したものなのであろうか?。
この謎の答は、次のようにすれば見つかる。
その丹波の西半分のそのまた南半分が、中古になると播磨になる。
その発音や前後の歴史から、播磨は巴利国の後身であることは疑いない。
だとすると、淡路はヤマトと一心同体だったはずなのに、ナゼ?、
その山人(ヤマト)とは
敵の巴利人(ハイト)=海人(ハイト)の勢力圏にあるのだろう?。
と不審を抱かなくてはならない。
すると壹與は巴利国とは確かに戦ったが、
卑弥呼政権を倒した後、巴利国を自分の国・邪馬壹国にしたから、
それ以後はハリマが、当然、その日本国(ヤマト)の大移動に加わったのだとわかる。
丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?
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