2013年9月30日月曜日
サカとサタの分布とイソップの変種
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:14頁
なぜ間違っているか?。
それは淡路島は近畿で始めて名付けられた地名ではなく、
種子島・丹児・但馬と同じ語源をもつ国名の、
新しい分布地だとわかっているからである。
それは「淡へ行く道」などという道案内用の名ではない。
倭や日本と同様に、新植民地を支配する権力者の母国名、
すなわち出身地名で表示した新「領土名」だったのである。
方向を指示する地名のサカ→サタも、
大阪府に入ると姿が変わってしまう。
サカはサカイ(堺)で、むしろ種子島へ戻っているが、
サタは、はるかに北の守口市佐太以外にない。
さらに北上すると古代丹波だった京都こ嵯峨(サガ)があり、
相楽(そうらく)郡がある。
この郡は古音サカラカ。
しかしサタは出雲までいかないとない。
島根県八束(やつか)郡鹿島町に佐陀本郷と佐陀宮内とがあり、
ここは戦前は佐太村で、昔の国幣(こくへい)小社・佐太神社がある。
『出雲国風土記』島根郡加賀郷に「佐太大神のいます所」とあり、
加賀の神埼(さき)の説明に小文字で注記して
「佐太大神の産まれた処、
その産まれたとき弓矢がなくなった。
枳佐加地売命(キサカジメのミコト)が祈ると水面に角(つの)で作った弓矢が浮き出た。
命がこれではないというと、今度は金の弓矢が流れ出てきた。
命はそれを取って「この窟(いわや)は暗い」といって岩窟を射抜いた……」
という話が書き添えてある。
これは先にお話ししたイソップの『金の斧』の変形だということが、
すぐおわかりになったと思う。
サカとサタの分布とイソップの変種
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2013年9月29日日曜日
中国地方を進んだ日本、四国を進んだ倭
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:13頁
九州から近畿へ丹波と播磨を運んだのは、確かに日本(ヤマト)だった。
しかし今みた地図で見ると、
そのうちの淡路島は四国を進んだ倭国と無関係だったとは思えない。
なぜなら反正天皇は倭の五王の一人、
倭王・済だったことは疑いないから、
彼は倭王・讃(仁徳天皇)が確保した阿波と讃岐から出発して、
大阪府南部の田尻に進出している。
彼の前の倭王・珍も茅沼(チヌ)(大阪府泉南)・
紀(キ)伊の(ノ)宮(キノ=チヌ=沖縄語、和歌山県)を確保している。
ということは、
四国から大阪、和歌山への最短距離に並ぶ淡路島と紀淡海峡の島々は、
徳島と和歌山と大阪とを結ぶ重要な三叉点にあるから、
倭王たちの重要な領土だったはずだからである。
だから淡路島は、同じ兵庫県だといっても、
丹波と同時の命名でないことは、
その当て字の違いをみても明かだ。
丹児は日本の当て字、淡路は倭の当て字だと分類する必要がある。
では次は、そのコースを倭の五王の名乗りで見てみよう。
それは阿波から淡路島、そして和歌山・大阪の順に確保されている。
西から東へ移っていることは疑う余地がない。
これは淡路島とは、
「阿波へ行く道の島」という意味の島名ではないことを証明している。
それは逆に大阪へ行く道の島だったのだから、
大阪のオオは「淡(オオ)」で
そこへ行く道だから淡路島と名付けられたといったほうが、
むしろ正確である。
しかしそれも間違っている。
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2013年9月28日土曜日
「畿内説」を完全に否定する播磨と高砂
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:12頁
このことは、これまで大問題だった邪馬壹国の所在地は「畿内ではない」と
結論する最も重要な決(き)め手である。
なぜならそうした合体政権は、他にも多くの敵味方国連地名を共有している。
たとえば高砂(たかさご)の尉(じょう)と姥(うば)は、壹與がモデルである
『竹取物語』に起源をもつ。
(私(加治木義博)著『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』ご参照)。
この高砂も、播磨の中では重要な市(し)の名になっている。
高砂の老夫婦は、皇国をヒロインとする伝承の登場人物なのだから、
高砂は卑弥呼女王国の首都だった巴利国とは、
全然無関係な名である。
高砂が大きな地名として混入している播磨は、
発音は卑弥呼の旁国・巴利国(ハリマ)と同じでも、
卑弥呼の旁国ではなく、
壹與以後の後世の移住先地名であって、
時代も内容も巴利国(ハリマ)と一致しない。
播磨は壹與政権成立以前の卑弥呼時代には近畿にはなかった国で、
邪馬壹国の誕生以後に生まれた移住先名だとはっきりしている。
当然、卑弥呼時代の巴利(パーリ)国では絶対にない。
卑弥呼の都で、
その後、邪馬壹国になった人口が七万戸もあった
巴利国に合う地名をもつ市町村は近畿にはない。
その巴利国は「近畿以外で同音の名をもつ土地」にあった。
それに合う土地は日本列島全域の中にも、
鹿児島県の姶良郡隼人町プラス国分市にしかない。
これは「卑弥呼は播磨にも近畿にも絶対にいなかった」という、
最強の、動かぬ証拠なのである。
「畿内説」を完全に否定する播磨と高砂
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2013年9月27日金曜日
丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:11頁
淡路島から但馬までが現在の兵庫県下にあること。
それは確かに、播磨(ハリマ)=巴利国(ハリマ)、だったことを示している。
そしてさらに上古には、
丹波は兵庫県全域から京都府全域までを包含(ほうがん)していた。
それは当時の大和、
現在の奈良県北部の10倍近い大きさをもつ
超大国だったことを決して見落としてはならない。
だからこそ、その実力が、近畿を支配する政権を手に収めさせたことは、
ごく当然だったとわかるが、それは卑弥呼時代ではなく、壹與時代でもなく、
はるか後世になってからである。
『魏書倭人章』が記録した倭国連合が、仮に近畿圏だったとしても、
卑弥呼が3世紀に奈良にいて、それを支配した可能性は全くない。
では丹波は、いっ?、
倭国(ウワイ)か日本国(ヤマト)か?、
どちらの勢力が占領したものなのであろうか?。
この謎の答は、次のようにすれば見つかる。
その丹波の西半分のそのまた南半分が、中古になると播磨になる。
その発音や前後の歴史から、播磨は巴利国の後身であることは疑いない。
だとすると、淡路はヤマトと一心同体だったはずなのに、ナゼ?、
その山人(ヤマト)とは
敵の巴利人(ハイト)=海人(ハイト)の勢力圏にあるのだろう?。
と不審を抱かなくてはならない。
すると壹與は巴利国とは確かに戦ったが、
卑弥呼政権を倒した後、巴利国を自分の国・邪馬壹国にしたから、
それ以後はハリマが、当然、その日本国(ヤマト)の大移動に加わったのだとわかる。
丹波や淡路を運んだのは倭国か日本国か?
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2013年9月26日木曜日
出発点サカと到着点サタ
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:9~10頁
「語源は」
塞(サカ)の神=猿田彦=岐(フナト)の神
塞(サヘ)の神=佐太 船渡(フナト)・船人(フナト)
塞(サイ)の神=佐太 船渡(フナワタ)・船人(フナト)
サカ サタ ワタツミ
釋迦族 = スキュタイ人
船岐・船木=フェニキヤ人
塞国=サカナ=魚=海神
魚(イオ)国=倭国(ウオマ)=イオニヤ人
倭・塞=オオサカ
ポセイドンの国大阪
百済・和泉 国
サカ → サタ 時代 人物
① 種子→日向 坂井 佐多岬 247年 壹與
② 豊後→伊予 佐賀関 佐田岬 421年以前 仁徳天皇
③ 和泉→河内 堺 佐太 469年 興
④ 丹波→出雲 嵯峨 佐太 475年以後 佐太(守口)の太守
「その他」
① 讃岐→吉備 坂出 西大寺
② 肥前 佐賀
③ 土佐 佐賀
出発点サカと到着点サタ
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2013年9月25日水曜日
淡路はヤマトと共に大移動した
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:8頁
そこで入念に細かく考えてみると、
そこの地名は茅沼(チヌ)の海でチヌは天やウチナ=沖縄でもある。
伊弉諾・伊弉冉の二尊も伊是名(イゼナ)島に合う「沖縄名乗り」をもっている。
己凝(オノゴロ)島は後世人がつけた名だから、
あとに残るのは淡路洲だけだ。
これは兵庫県の淡路島以外には侯補地はないのだろうか?。
淡路の万葉読みは「タンジ」。
前にみた丹児(ご)のタンジと同じものへの当て字であり、
それは淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)という
当て字で表わせる地名だ。
それは南西諸島から次第に大型化しつつ北に東に分布して、
決して兵庫県の淡路島だけが独占している固有地名ではない。
その移動は次ページの地図で一目瞭然だが、
この地図では四国にだけ、
このタンジがないように見える。
だが、それこそ淡=アワ=阿波=徳島であり、
問題の淡路島だったのだ。
そこでは余りにも巨大化が激しく進んでいたために、
サカ→サタという渡海点からは見落とすほど距離がありすぎたのだ。
卑弥呼時代には種子島にあって、
壹與時代に大移動が始まった奴国(ノマ)=野間は、
野の漢字音はヤだから、野(ヤ)間=ヤマで野間人はヤマト。
それは海(ハイ)人=ハイトと対立した山人=山幸で、
山上(カミ)王とも書かれた位宮をも指すから、
彼の政権もヤマト=日本と呼ばれた。
この呼び方は『日本書紀』が冒頭の「創世紀」で、
「日本は耶麻謄(ヤマト)と読め」と指示している。
淡路はヤマトと共に大移動した
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2013年9月24日火曜日
天孫降臨も神武東征も嘘にする「大阪湾・国生み」説
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:7頁
次は<卑弥呼>と<壹與>のどちらかが、
本当に大坂湾生まれだったかどうか?…の問題である。
<伊弉諾尊>・<伊弉冉尊>2神が、天から降った。
というのは、そのままには受けとれないから、
天の浮き橋は船であって、航海してはきたものの、
先住民の抵抗が激しくて、
小さな島以外には上陸できなかったからだとみれば、
この記事は史実としては合理的に生きてくる。
しかし<伊弉諾>・<伊弉冉>2尊が大阪湾に建国したとすれば、
その曽孫である「瓊瓊杵(ニニギ)の命の天孫降臨」は、なぜ必要だったのか?。
なぜ特記する必要があるのか?。
なぜまた大阪に比べて、はるかに辺鄙な日向などに降臨したのか?。
全然わからなくなる。
また、2神当時に、すでに皇祖が畿内に天降ったのなら、
その子孫である神武天皇はなぜ?
その辺鄙な日向から出発して東征したのか?。
これも全然わからなくなる。
も少し念入りに考えると、先祖が建国し、確保していた土地に、
なぜ、直系の子孫である神武天皇が、
はるばる九州のはずれから出発して攻め込み、
占領して新しい国とした上で、初代天皇として即位したというのか?。
橿原建国は何のためか、まるでわからなくなる。
その細部をみても、その占領地は神武天皇が、
塩土の老爺に「東に美地あり」と教わって初めて知った土地であって、
とても肉親の、近いご先祖が拓いた国だったとは思えない。
天孫降臨も神武東征も嘘にする「大阪湾・国生み」説
天孫降臨も神武東征も嘘にする「大阪湾・国生み」説
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2013年9月23日月曜日
1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:6頁
私たちの知識の中にはオオヒルメについて、もう一つの情報がある。
『大隅正八幡縁起(えんぎ)』の大比留(ル)女である。
彼女はすでに、
前後の事情や物証によって、壹與であることがはっきり立証されている。
『日本書紀』は、オオヒルメ=壹與だけを皇祖と認めて、
卑弥呼=天照大御神は認めようとしていないのだ。
一方、『古事記』はその逆に、卑弥呼だけを皇祖として認め、
壹與を認めようとはしていないのである。
これは、
卑弥呼の倭国政権が、
壹與の日本国(邪馬壹国)政権に倒された事実を何よりも明確に、
双方の後継者が認め、主張し、明記して証明している国史上最高の「証拠」なのだ。
在来の邪馬台論争では卑弥呼は、
「実在の邪馬壹(いち)国を誤解して生まれた蜃気楼(しんきろう)にすぎない邪馬臺(タイ)国」の
女王だという珍説をはじめ、
神武東征以後、ずっと日本国だけが継続していて、
卑弥呼はその政権の第7代・孝霊天皇の皇女で、
第10代・崇神天皇時代にも活躍した女性であるとして、
「全く卑弥呼の倭国政権と壹與の日本国(邪馬壹国)政権の対立にさえ
気付かない大和説や畿内説など」知性の存在を疑うほどの説まで、
ワンサとヒシメキあっているが、
それらを判定する立場にある
『日本書紀』と『古事記』は、
すでに1200年前にこうして明確に2国対立抗争の史実を明かして、
自派の政権の根拠を強く主張していたのである。
1200年前に勝敗が決まっていた邪馬台論争
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2013年9月22日日曜日
天照大御神は『日本書紀』には居ない
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:5頁
それは、つきつめると、
「天照大神」という同じ名乗りをもったとされる2人の人物の、
どちらを正統と認めるか、
すなわち政権の出発点をどちらの天照大神に置くかの争いである。
それを
『日本書紀』は大日霎の貴だといい、
『古事記』 は天照大神だという。
念のためもう一度、この神(人物)が生まれた時の、双方の原文を読み返してみよう。
『日本書紀』
「是(ここ)に於いて共に日神を生む、大日霎の貴とな號(なづ)く」。
(この後は小さい字で)「大日霎貴 此(これ) 於保比屡(ル)咩(メ)能武(ム)智云う。
一書 天照大神 と云う。
一書 天照大日霎尊 と云う」
と[註]として書いてある。
本文には「日神。大日霎の貴」とだけ書いてあつて天照大神とは一切書いてない。
『古事記』
(伊耶邪美命が死んで、
黄泉を訪れた耶邪岐命は豫母都志許賣(ヨモツシコメ)=泉津醜(しこ)女と
伊耶邪美命に追われて逃げ、
[竺紫(チクシ)・日向之・橘・小門(オト)之・阿波岐(アワキ)・原]で
禊祓=ミソギ=水浴びして身を清めた)時。
「左の御目を洗う時 成る所の神の名 天照大御神
次右の御目を洗う時 成る所の神の名 月読命
次御鼻を洗う時 成る所の神の名 建速須佐之男(タケハヤスサノオ)命」
と書いてある。
『古事記』には天照大神がいるが、
それも「天照大御神」であって、
前にお話したように「御(み)」の字=ミ=女(沖縄語)が入れてある。
天照大御神は『日本書紀』には居ない
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2013年9月21日土曜日
『日本書紀』と『古事記』の大論争
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:4頁
伊弉諾・伊弉冉の二尊は天照大神の両親で、
天孫・瓊瓊杵(ニニギ)の尊の曽祖父母である。
伊弉諾尊・伊弉冉尊は瓊瓊杵の尊の天孫降臨より、
はるかに前に、近畿地方にやってきたというのが『日本書紀』の主張なのだ。
では『古事記』はどうか?。
当て字が違うだけで、
伊耶那岐命と伊耶那美命が淤能碁呂嶋に天降って、
八尋殿(やひろとの)まで建てて住まい、
そこで水蛭子を生むが葦船に入れて流し、
次いで淡(アワ)嶋を生むが、これもまた子供のうちには入れなかったとある。
しかしその後も淡道之穂之狭別嶋を手始めに、
国々、島々と、山川草木の神々を生んだあと、
火之夜芸(やけ)速男神(別名・火之迦具(カグ)士神)を生んだために、
伊耶那美神は死んで黄泉国へ神避坐(かむさります)。
ご覧のとおり天照大神や月の神、素戔鳴(スサノオ)の尊は、
淤能碁呂嶋では生まれないし、
伊耶那美(イサナミ)命の子としても生まれない。
『日本書紀』の大日霎の貴とは全く別人なのだ。
こうして精密に『日本書紀』と『古事記』の記事を比較してみると、
一見、同じようで、多少の違いしかないように見えるが、
実はその内容は根本的に違っている。
表面ではいかにも同じ歴史を記録しているように装いながら、
その実は、
国家の成立と、
皇祖の中の皇祖である天照大神をめぐる建国史最大の問題について、
一大論争を展開していたのである。
『日本書紀』と『古事記』の大論争
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2013年9月20日金曜日
建国史最大の問題「国生み」の位置
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録28:3頁
私(加治木義博)が反正天皇と田尻に重点をおいて、
繰り返し念入りにお話しするのは、
それが『記・紀』神話の最重要部分である「国生み」の謎を、
完全に解く可能性があるからである。
なぜなら『日本書紀』本文は「国生み」の最初に
伊弉諾尊・伊弉冉尊が天の浮橋の上に立って、
天の瓊矛(ぬぼこ)を使って磤馭盧島(オノゴロじま)を造り、
伊弉諾尊・伊弉冉尊がその島に天降(あまく)だって、
男尊女卑を確かめてから淡路洲(しま)を生み、
次いで大日本(ヤマト)豊秋津洲から次々に島々国々を生んでいったと書いているが、
この磤馭慮島と同名の己凝島(オノゴロじま)が、
大阪府田尻町の南西わずか30kmのところ、
大阪府と淡路島を分ける紀淡海峡を鎖状につなぐ島々の中にある。
もっともその島は在来の学者でも、
「それではなく、より大きい友ガ島か、その付近の大型の島だろう」といっているが、
己凝島の位置がこの水域だということを疑った者はない。
そしてこのあと、同じ島で多くの国々、島々、山川草木を生んだ後、
大日霎(オオヒルメ)の貴(ムチ)(一書は天照大神と云う)と、
月の神と、蛭(ヒル)児と、素戔鳴(スサノオ)の尊を生んだと書いてある。
なんと!?、天照大神は関西空港に近い“大阪湾生まれ”だったというのだ……。
それなら天照大神だったことが疑いない卑弥呼は、
関西人であり、奈良県の大和にいても不思議はない。
「邪馬臺(ヤマト)国は大和だ」という説は当然だ。
ということになる。
建国史最大の問題「国生み」の位置
建国史最大の問題「国生み」の位置
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2013年9月19日木曜日
「粗雑な説話集ていど」の部分が秘めていた巨大な答
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:32頁
以上で、
『記・紀』がはっきりと倭国と日本国の2天皇家を記録している事実や、
それは天武天皇以下の天皇たちが書かせたものであり、
その倭国と日本国の2天皇家を区別せずに
「神武天皇以来の一系」に編集し直した事実が明瞭に確認できた。
それによって、天智天皇と天武天皇とが兄弟に見えたために、
日本史に人道的汚点を焼き付けた大化改新後の「骨肉相克」が、
本当は実体のない幻影にすぎなかった事実もわかった。
その「一系」思想の発生源は、
天皇文化の母体であるアーリヤ文化であり、
『記・紀』の『創世記』も
そのカ-スト制度の原典から神々と国生みの表現法をえていること等、
過去に深刻な謎とされてきたものもまた一気に解明してしまった。
また以上から確実に理解できたことは、
従来非難されてきた天武天皇の焚書は、
始皇帝のような独裁目的の利己的なものではなかったという事実だ。
しかもこの答の宝庫は、
粗雑説話集とされてきた『清寧紀』から『武烈紀』の部分にあったのだ。
検討法さえ正しければ、
その系譜がこんなにも明快で反論の余地ない結論を次々に集積し、
日本建国史再編の不動の基盤になったのである。
この国史研究史上まれにみる画期的な事実を、悪文を面倒がらずに、
よくご熟読、ご消化いただいて、
今後のご研究に大きくお役に立てて戴きたいと願っている。
「粗雑な説話集ていど」の部分が秘めていた巨大な答
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2013年9月18日水曜日
『記・紀』創世記はアーリヤ創世説話の一種
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:31頁
スードラとは被征服者の先住民名で、
アーリヤ人に比べて色が黒く無知で神に祈ることも知らぬ、
意味不明の言葉を話す獣なみの蛮人だと、
バイシャの下に加えて4姓ができ上った。
これは我が国の階級制度のルーツだけでなく、
『記・紀』の「創世記」が次々に出現する神で表現されている不思義さも、
高級から低級へ各階級が出現するインド創世説話をみると謎が解ける。
『記』と『紀』で体裁は異なるが、
「〇〇尊」「〇〇神」が次第に生まれて、
この世界=人間社会を形成していくという思想は、
アーリヤ人のもっていた常識と同じであって、
『日本書紀』はこの常識の前に、対中国向け「序曲」として
中国文献、徐整の『三五暦記』や劉安の『淮南子(えなんじ)』から
引用した説明文を付け足したものである。
そのためアーリヤ文化が天皇家文化の母体であると突き止めていない者にとっては、
その序曲の中国学説なら一見して出処が明白にわかるので、
それが『記・紀』の「創世記全体」の基礎になっているように思い込んだ者は、
日本の古代文化は中国文化が朝鮮経由で入ったものだという軽薄な結論に陥いった。
だが序曲部分はお添えものにすぎない。
『記・紀』の創世記の核心はそれらの神名にあるのであって、
『古事記』筆頭の天之御中主神がインドのビシュヌー神であることは、
もうすでに大学講義録25の15頁などでよくご存知の通りである。
『記・紀』創世記はアーリヤ創世説話の一種
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2013年9月17日火曜日
3貴子誕生の謎の答=インドの四姓の原型
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:30頁
その天武の発想の背景には、
当時の人々の「階級制度に慣らされた諦観(あきらめ)」の存在がある。
それはインドのアーリヤ支配体系を、
現在まで維持し続けたカースト制度と同じものである。
カースト=四姓制度とは、
人は生まれながらに階級が決まっていて変えられない、
という観念で国民を支配したひどい政策である。
先に取り上げた天照大神たち2貴子が
伊弉諾の尊の眼・口・鼻から生まれたとする発想のルーツが、
この四姓制度の基本になっている。
それはシンドゥ教の聖典の一つ『リグベーダ』の「原人歌」で、
巨大な原人・プルシヤの
口からブラフマン=婆羅門が生まれ、
両腕からラージャニヤ=王族軍人が生まれ、
両腿からバイシャ=吠舎が生まれ、
両足からスードラ=首陀羅が生まれたと書いてある。
原人とは宇宙と真理の擬人化と、
それから生まれた人類全体を意識したもので、
「口」は教え導く者。
「腕」は物事を取捨選択して保護する者。
「腿」は全体を支え活動するものの有力な上部構造。
「足」はそれら全てに奉仕する最下部構造を意味するから、
ブラフマンは 学者・司祭者など、
ラージャニヤは 行政・軍事を司どる者。
バイシャは 生産と流通の経済に従事する一般庶民で、
以上の3階級はB.C.E.2000年頃から
インダス人を滅ぼし次第にインドに侵入して支配権を握った
「アーリヤ=arya=高貴」人がもっていた階級制度である。
3貴子誕生の謎の答=インドの四姓の原型
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2013年9月16日月曜日
中国の皇帝が羨望した「天武式万世一系」体制
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:29頁
彼は、やってきた日本僧から日本の歴史を聞き、深いため息をっいて宰相に話した。
「日本の天皇はすでに六四代も続き、万世一系であり、臣下も代々親のあとを継ぐという。
これに比べて中国は革命につぐ革命で、宋になる前の五代など、ひどいのは四年で亡びた。
朕が日夜政務に励むのは、お前らの子孫の安定した暮らしを願うからだ。」
確かに日本の天皇制は世界に類のない千数百年の安定をもたらした。
多少の動乱はあったが革命のたびに逃げまどい生命財産を失った中国人に比べて、
日本人は幸福だったといえる。
そんな政治技術は未開人の間では生まれない。
多くの体験と高度の先行文明の実在を立証しているのである。』
世界の王政の大半が、
度の過ぎた奢侈と人権無視で、国民に潰されて消えた今、
天武天皇の先見の明は最高に評価しなければならない。
それは「効果があったか?」どころではない。
中国の皇帝が羨望した「天武式万世一系」体制
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2013年9月15日日曜日
成功した天武天皇の「万世一系」改造工作
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:28頁
でも、この答は意外なほど簡単である。
それはご存知の通り、2国並立が事実だからだ。
毎日新聞の『倭国展』が開かれて久しい。
我が国でいまだに、
倭国と日本が同時に存在していたことを知らないのは、
歴史ぎらいなマンガ人種ぐらいなものである。
天武天皇の弘文天皇殺しは、
醜い内乱や謀反でも、
骨肉相食む近親殺人でもない。
当然、起こるべくして起こった、
敗北者・旧倭国の王・天武の「巻き返し」にすぎない。
それを「醜い謀反」「骨肉殺人」にしたのは、
その当の天武天皇自身である。
彼は自身に降りかかる非難や憎悪を予測できないほどの愚者ではなかった。
だが敢えてそれに甘んじたのは、
非常に高い知性の持ち主だったからである。
彼は自分の名誉を犠牲にして列島と国民の安泰を計った。
血縁から行けば倭国と日本の両天皇家は、
その祖先で繋がっているから、
系譜は複雑になるが一応「万世一系」である。
しかしそれでは革命と中国の侵略を招きかねないと心痛して案出したのが、
神武以来一系だという、単純明快な「万世一系」だったのだ。
それは効果があったか?。
天武天皇が脳裏に描いた強敵・中国皇帝がこれに答えている。
中国の『宋史』「外国伝・日本国」に
984年、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が太宗皇帝に専敬されて紫衣を授けられ
太平興国寺に滞在して太宗と筆談で日本の事情を話したときのことである。
成功した天武天皇の「万世一系」改造工作
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2013年9月14日土曜日
2皇朝並立の記載は天武天皇らの勅命
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:27頁
この事実は幕末以来さまざまに議論された
「天智と天武は兄弟か?」という疑問にも答えている。
真相は、この2天皇もそれぞれ別の国の天皇だった。
それを神武天皇以来1皇朝だったと小細工した以上、
2皇朝を一つに合わせると
どうしても「兄弟」ということにするしかなかった。
これが日本史上最大の「国家統一=大化改新」中の巨大な謎の答だ。
こうしたことを明らかにすれば、戦前は不敬罪にされたが、
今なお不快に思う連中が僅かだが残っている。
だがそれは見当はずれな逆恨(さかうら)みである。
なぜならそんな歴史を作ったのは『記・紀』の作者たちであり、
それを命じ、完成本を許容した天武天皇以下の歴代天皇たちであって、
私たちはそれを正確に読んだだけにすぎない。
それを不快に思う連中は天武以下の歴代天皇を不快に思い、
反抗しているのだから,逆恨みなのである。
だが私たちは、日本人どうしいがみ合う幼稚なままではいられない。
その二重皇朝をなぜ?公式記録の『正史』、
それも
『日本書紀』と
『古事記』の
二正史がはっきりと掲載したのか?。
この大きな謎を解明しなければ、そんなことを不敬罪に法制化し、
国民を侵略に動員した犯罪人種として、日本人を人類の敵視し、
異星人のインベーダー同様に見ている外国人は減らず、
いっまでも日本人の恥は雪(そそ)がれず、
日本人の前途は暗いままだからである。
2皇朝並立の記載は天武天皇らの勅命
2皇朝並立の記載は天武天皇らの勅命
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2013年9月13日金曜日
允恭天皇の水増しと、日本4天皇混入
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:26頁
まず名乗りの差がはっきり映像のように見せた答は、
允恭天皇が他の五王とは別の国籍をもつ事実だ。
この部分は仁徳から雄略までが6代あって五王に合わず、
問題を残したままの部分だった。
いま混入が明かになってみると、
「雄朝津間稚子宿祢オアサズ・マチグァ・ヤドネ」と読めることが気になる。
これは大隅語だと
「御座(おあ)さず(存在なさらず)まちぐぁ(間違い)やどね(だよね)」
という完成した言葉になる。
誰がなぜ挿入したのか不明だが、
編集時に故意につけ加えたことだけは明白だ。
これは淡海三船もよく知っていて漢風諡号(おくりな)を、
允恭天皇とは
「イン=居ない。ギョウ=形。=存在しないようにみえる天皇=隠形天皇」と、
よく考えて風刺してつけている。
彼は高麗を孝霊と当て字する才人である。
清寧天皇も
白=新羅、
髪(ハッ)=泊瀬=百済、
武=高市・高句麗、
広=広島、
国=種子・屋久、
押=大隅、
稚=茅沼~和歌山(チはキの国=紀伊国)、
それらの領土の総括名が日本であり、
根子とは「天皇・皇帝」を意味する称号で、
明らかに日本根子は日本国天皇である。
そしてその領土を受継いでいるのは継体天皇ではなく、
安閑、宣化、欽明の3天皇である。
以上の4天皇は間違いなく日本国天皇たちだ。
天武はなぜ?旧敵の日本天皇を混入したのか?
7~8世紀の国民が事実を熟知していたから、
天武らはそれを消去できなかったのである。
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2013年9月12日木曜日
「万世一系化工作」にみる天武らの知性の高さ
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録27:25頁
これを見て始めて理解できることは、
倭国の23年と
日本国の23年は
2皇朝並立の二重構造を数字合わせするための
「数学的工作の痕跡」であるが、
その工夫はそれだけの単純なものでなく、
より複雑化するために、
もう一つの面である「組み替え工作の痕跡」もある。
それは、実際に並立していた部分はそんなに簡単ではなく、
このリストに見る
「*印」の天皇たちのような複雑な組み合わせになっている。
天武天皇たちはこうした歴史改作が容易に見破られないように、
これだけの配慮をし、工作を実行できる高度の知性をもっていた。
そのため近世の学者たちでさえ、それを見破れずにいたということになる。
では、それなのに、これだけ異なる倭国と日本国の名乗りの違いを、
なぜそのままにしておいたのか?という疑問が残るが、
それは、読ませる相手が中国人だという目的からくる。
当時の国民は旧倭国の国民が全滅したわけではない。
政権の中枢とその一族郎党は東国へ大移住して行ったが、
一般庶民はもちろん、下級官吏たちも知識人たちも残っている。
近世史を熟知している国民が大量にいた。
その人々に幾ら小細工した歴史を見せても何にもならない。
むしろ軽蔑されるだけだから、あくまで「中国向け文書」だ。
それも中国政府の特殊な役人が参考に読むだけである。
天皇たちの名乗りまで変える必要はなかったのである。
「万世一系化工作」にみる天武らの知性の高さ
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