2013年5月3日金曜日
れぞれ幾人もいた武内宿祢と葛城襲津彦
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録23:7頁
《それぞれ幾人もいた武内宿祢と葛城襲津彦》
「それぞれ幾人もいた武内宿祢と葛城襲津彦」
だがこの葛城襲津彦を、
過去の学者のように個人名と考えていては、何の役にもたたない。
『記・紀』の孝元天皇記には、
建内宿祢(武内宿祢)は孝元天皇の孫で、
葛城・長江・曾都毘古(襲津彦)は建内宿祢の子だと書いてある。
この天皇は『日本書紀』の国牽天皇だから、」
卑弥呼の夫ソナカで、
その孫なら長寿だった卑弥呼が生きていた時代の人である。
ところが『古事記』仁徳天皇記や『日本書紀』履中天皇紀には、
葛城・曾都比古(襲津彦)は
仁徳天皇の皇后・石日売命(磐(いわ)之媛)の父だと書いてある。
今では仁徳天皇が倭王=讃であることは疑いないから、
讃が宋に上表した後、
死んだのは425年、
ソナカが死んで卑弥呼が倭国連邦の女王に共立された
2世紀から、3世紀も後の人物である。
視点を変えて、卑弥呼=神功皇后時代をみると、
襲津彦は神功5年にはもう武将で、新羅の城を攻め落としている。
その孫は仁徳時代には200歳以上で、とても皇后にはなれない。
葛城襲津彦というのは名乗りであって個人名ではない。
同じ名乗りでも別の人物だったのである。
これがわかると古来ナゾのままになっている
武内宿祢の300歳を超える長寿?の正体もわかる。
武内宿祢もまたやはり名乗りであって個人名ではなかったのである。
これほど明白で重要な「名乗り」を知らずに、
日本の建国史の解明など絶対にできるはずがない。
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