2012年9月6日木曜日
壹與の神社さえもない奈良県
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:13頁
《壹與の神社さえもない奈良県》
「壹與の神社さえもない奈良県」
しかし卑弥呼が大神(おおみわ)の実体であり、
その語源の大倭もまた仏教だったのに、
全てが仏教ではなく神道として神社に祭られていることに注意がいる。
仮に、卑弥呼の仏教政権が奈良にあって3世紀に敗北し自殺したのなら、
以後の住民には軽蔑の対象でしかない敵政権の支配者・卑弥呼を、
わざわざ神社を建立してまで祭ることなど絶対にないし、
憎むべき敵を思い出させるような遺跡は、
5世紀もの間には消されてしまって残らないはずなのだ。
それだけでなく尊敬すべき勝利者・壹與や位宮の神社が絶対にあるはずだが、
奈良県にはそれがない。
これは壹與の邪馬壹国が奈良になかった事実の動かぬ証拠であると同時に、
奈良にある卑弥呼関係の地名や遺跡は、
鹿児島から奈良に移動してきた旧卑弥呼政権の残党が、
自分たちの固有文化を移住先にも作り、
固有地名を移住先にもつけた移動の跡であって、
3世紀のものではなく、後世のものであるという証拠でもある。
ではその時期はいっか?。
天皇たちの名乗りがその移動の跡を記録している。
橘の豊日=但島国のフジ=用明天皇→蘇我の稲目(イナマ)=猪名国(兵庫中南部)→
天萬豊日=天満豊島=大阪府中北部=孝徳天皇へと移動拡大していった倭国政権が、
天智天皇に攻められて敗れた大化の改新(オオカン改新=大神革命=大阪戦争)で
奈良に逃げ込んだ670年以後である。
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