2012年9月26日水曜日
邪馬壹新政権成立後の移動、拡大
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:34頁
《邪馬壹新政権成立後の移動、拡大》
「邪馬壹新政権成立後の移動、拡大」
これで旁国と百襲姫の名乗りが全く同じ地域を指すことと、
張政の滞在中にも奴国が種子島から九州中央部へ移って超大国化し、
方後が方前を生んで後の豊後と豊前になったように、
旁国が時代とともに移動拡大して行った事実が、まるで眼で見るようにわかった。
その移動の理由も、
不弥=豊前の「前」とは「前進基地」を意味し、
邪馬壹国誕生直後に生まれた不弥国は、
まぎれもなく新政権の前進基地として配置されたのだとわかる。
また不弥の発音は、
マエをミヤーと発音しているから、
先にお話したように、
尾張弁すなわちウワイ語=倭語であったこと、
それが後にブゼンに変化したのだと正確にわかる。
卑弥呼女王国の旁国が、
卑弥呼の死後にこうして移動、拡大した事実は疑問の余地がない。
その最大の証拠は、後世の本州、四国に分布する旁国と同じ、
またはその子孫であることの確実な発音をもつ大国が分布していることである。
そうした古代大国があるために、
単純な国名比較しかできなかった過去の邪馬台論者らは、
いい加減な思いっきでそれらを『魏書倭人章』の旁国だと思い込んでしまい、
とんでもない迷路で右往左往することになったのである。
しかし私たちは、
それらの大国が、旁国の条件にどんなにはずれているか、
そのサイズがまるで違い、
一つの旁国中に他の旁国や敵国までが入っている実例を最初に見ている。
旁国が構成していた卑弥呼の女王国と百襲姫の名乗りが示す地域は、
当然、同じものでなければならない。
それを見比べてみると、まだ修正が必要な旁国がみつかった。
それは熊本県菊池郡の子養だとした為吾 gwia ngo で、
これはその移動前だとした鹿児島市の五位野に戻して、
五位野郷=グイヤんゴーとし、呼邑 go iap ゴヤフを宮崎県児湯郡だとすると
隣接関係が生きてきて空白域が少なくなり、そのほうが正しいとよくわかった。
このことで、私たちは仮説を過信することなく念には念を入れて、
あらゆる角度から観察して
不合理点を修正、消去して行かねばならないという教訓を得た。
次に修正後の最終リストと地図を作成して、
旁国の謎解きは一応終了しよう。
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