2012年9月10日月曜日
倭国と日本2大政権の初期の姿
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:17頁
《倭国と日本2大政権の初期の姿》
「倭国と日本2大政権の初期の姿」
「百」も言うまでもなく海幸・海人族と呼ばれた彼女の種族、
ポセイドンに対する当て字・百済である。
それは「ホ」と発音されて、彦穂穂出見や狭穂姫の名乗りを構成しているとおり、
種子島を指す国名で、「倭人章」の旁国最南端の奴国に当たるが、
九州北部の奴国は彼女の死後に大移動したもので、
この大移動が、
後世のあの「橘」の諷歌に歌われる倭国と
日本の2大政権の移動と発展の初期の姿だったことを、
よく記憶しておいて戴きたい。
「襲」は旁国の蘇奴国で、
今も襲の国と呼ばれている大隅半島北部の総称である。
注目すべきことは、
この「襲」という特殊な文字を国名に使ったのは、古今東西を通じて、
我が国ではこの地域だけで、
この名乗りを見ただけで、百襲姫がどこの人か、簡単に判別できる。
それが出来ないのは、この名乗りを始め、天皇や皇族の名とされてきたものが、
全て所領地名の名乗りであるという日本史学で最も重要な常識を、
いまだにもっていない自称歴史家だからであって、
我が国史学界の遅れた実態には呆然自失するしかない。
以上を奈良県を中心に周辺の地名にあてはめてみると、
迹=十市(といち)、迹=遠江(とおとおみ)、
日=播磨、百=百済(くだら)(大阪市)だけがあるが、
全てが5世紀以後の地名であり、
かつ発音も倭をヤマトと読むように3せ紀のものではない。
倭迹迹日百襲姫は鹿児島以外の領主ではありえない。
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