2012年9月13日木曜日

壹與も卑弥呼。神功皇后陵名の謎解き



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録15:20頁

 《壹與も卑弥呼。神功皇后陵名の謎解き
 「壹與も卑弥呼。神功皇后陵名の謎解き

 老卑弥呼は後漢の桓帝と霊帝のころ(160年代)共立されたのだから、

 240年代には80歳前後で到底父親が生きていたとは考えられないし、

 また生きていたとしても戦闘を指揮して卑弥呼政権を倒し、

 邪馬壹国新政権を樹立して君臨する体力があったとは考えられないから、

 卑弥弓呼素は、やはり壹與の義父である位宮以外にはありえない。

 壹與も卑弥呼と呼ばれたことは、これで決定的になる。

 とすれば可愛山陵は壹與の墓でもありうることになるが、

 『日本書紀』には、

 彼女は神功皇后として狭城楯列陵に葬られたと記録されている。

 いま奈良市にある神功陵は対唐謀略用の『日本書紀』援護のために、

 後世に設けられた偽陵だから、名が一致するというだけで、

 単純に誤信することは許されない。

 狭城楯列という名に真相が隠れているか検討してみよう。

 今は主題が違うので、これも結論だけにしておくが、

 狭は彼女の母国・種子島を指すタンネ。

 または狭津国(サツマ)の略で薩摩。

 城はシロで斯盧=白日別=福岡→新羅の本国。

 楯はタテだと沖縄語ではタチで高城=都支=迹。

 ジュンだと「女王の」の沖縄発音への当て字。

 列は無意味だが、

 『古事記』の真福寺本(賢瑜本)には「別」と書いてあるから、

 それなら別陵で、もう一つの陵。

 これは日本武尊の白鳥陵も各地に別陵があるので、少しも不思議ではない。

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