2012年9月14日金曜日
可愛山陵は壹與の墓
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:21頁
《可愛山陵は壹與の墓》
「可愛山陵は壹與の墓」
これで狭城楯列陵は狭城楯別陵が正しく、
それは紛れもなく薩摩の女王・壹與の別陵で、
その名は彼女の名乗りに対する当て字だったことがわかった。
彼女は新羅の始祖王・赫居世として
13歳で即位したことまで記録されているのだから、
この名乗りほど適切なものはない。
偶然こんなに解読できることなど絶対にないから、
彼女の名乗りと断定する以外ない。
すると懸案の可愛山陵はだれの墓なのか?。
そこはまさに薩摩最大の都市・川内市である。
薩摩女王=壹国(サツマ)女王は壹與以外にはいないから、
このペマカ陵こそ、壹與の本陵で、
本来はこちらが
狭・城・楯・陵=(種子島 or 薩摩)・新羅・女王・陵だったが、
そのままでは対唐外交上、都合が悪かったので、
別に奈良に狭城楯別陵を造ったのだとわかる。
これで可愛山陵と、奈良の狭城楯別陵の年代とがわかる。
可愛山陵はどんなに計算しても間違いなく4世紀のものだが、
狭城楯別陵が彼女の陵になったのは、8世紀以後なのだ。
なぜなら『日本書紀』の「神功皇后紀」は、
神武東征以来ずっと大和朝廷があって
皇后も奈良で生活したように書いてあるが、
実際は彼女は九州を出ていない。
彼女の槃余(イワレ)稚桜(チオ)の宮とは、
今も石躰神社として残る隼人町の「石割(イワ)れ高千穂の宮」だったことは、
もうよくご存知の通りで、日向以東は仇敵倭国の勢力圏だったからだ。
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