2012年9月22日土曜日
躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:29~30頁
《躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に》
「躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に」
ここで再び「旁国」に戻って、
残る躬臣国、支惟国、烏奴国の3カ国を解明してみよう。
17 躬臣(キウンデン or キウデン)国
この国は正確な漢魏音で kiung dien キウンデンまたはキウデンと読める。
最後の「ン」は南九州語の助詞の「ノ=の」とみて取り去ると、
今も「キウデ」と発音する人のある「給黎」という姓がある。
これは今「喜入」と用字が変わっている揖宿郡喜入町の古名だから、
候補地は喜入町周辺、薩摩半島の東部、鹿児島湾に面した沿岸地域である。
しかし kiung dien に、より以上に発音の似た地名が、
九州北部に現存しるいるので、
これも候補地に挙げないわけにはいかない。
それは佐賀県唐津市宇木(ウキ)にある汲田で、クンデンと発音する。
これはカールグレンの発音から
正確に2つの「 i 」を取った形になっているので捨て難い。
しかしそこは帯方郡使が上陸した末盧国に余りにも近過ぎるので、
遠絶しているという旁国の条件に合わないから、
給黎からの移住か何かで後世につけられた地名である可能性も考えて、
旁国の比定地には喜入のほうを採用しておく。
19 支惟(チディワ)国
この国は tieg diwar チディワ で、
ぴったりの長崎県南高来郡千々石町がある。
これと発音は異なるが、
非常によく似た千石町が鹿児島市にある。
これも古代には千々石だったものが、
省略されて千石になった可能性を考えて、
挙げておくことにした。
20 烏奴(オノ)国
o no オノ で、同じ発音の小野が
鹿児島市と鹿児島県川辺郡川辺町と日置郡吹上町と
熊本県鹿本郡植木町と
長崎県佐世保市と諌早市と
大分県の大分郡挟間(はざま)町と西国東(くにさき)郡大田村にあり、
尾野が福岡県山門郡山川町にあるが、
鹿児島県熊毛郡尾久町にある尾の間(おのあいだ)は、
今では間をアイダと発音しているが、
対岸の島間(しまま)はマという古代の国称を残しているので、
尾の間も古代にはオノマすなわち烏奴国(オノマ)だったはずで、
このオノの分布地が九州西部を北上していることから考えて、
それが次第に広がっていったものとみていい。
これらのオノのうち、
どこが卑弥呼当時の旁国だったかは、
決定的な記録がなく不明だが、
旁国は卑弥呼の勢力圏の内にあり、
他の旁国が後の「小国日本=ほぼ鹿児島県域」にあったことで、
鹿児島県内だったとみるのが妥当だ。
しかし尾の間は当時はすでに狗奴国の中に没入してしまっているから、
あくまで先住地であって、絶対に卑弥呼当時の旁国ではない。
では手掛かりは全く無いかというと、そうではない。
この名の場合は、他の重要な名詞と同じ発音をもっているからである。
オノは鉄器時代に入ってからは、「斧」の日本名として普及した。
こうした名は製作地の名が品名にもなる。
ことに鉄製の武器・利器はそれが通則で、
備前長船(おさふね)は刀剣、
種子島は鉄砲、
南部は鉄瓶といった例にこと欠かない。
これを手掛かりにすると、
銅器時代がなく鉄器先進国で、
日本最古の鉄器が出土した
薩摩半島地域が有力な候補地として篩(ふる)い残される。
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