2012年9月30日日曜日
孝霊天皇は卑弥呼の父イザナキの尊1世
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:5頁
《孝霊天皇は卑弥呼の父イザナキの尊1世》
「孝霊天皇は卑弥呼の父イザナキの尊1世」
卑弥呼の家系がわかれば、何がわかるか?。
まず倭迹迹日百襲姫一族の系譜を見て、
その中に『魏書倭人章』の登場人物がいるか、どうか見てみよう。
百襲姫の父・孝霊天皇には3人の后妃があって、
それぞれ次のような皇子女があったことになっている。
「系譜」
大日本根手彦太瓊天皇(孝霊)の后妃皇子女
皇妃 皇子女
1 細媛命(春日千乳早山香媛・十市真舌媛)━━━大日本根子彦国牽天皇
2 倭国香媛(組某姉・ハエイロネ) ━┳━倭迹迹日百襲姫
┣━彦五十狭芹彦(吉備津彦)
┗━倭迹迹稚屋姫
3 ? (組某弟・ハエイロト) ━┳━彦狭島
┗━稚武彦
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2012年9月29日土曜日
画期的な大発見も可能に!!
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:4頁
《画期的な大発見も可能に!!》
「画期的な大発見も可能に!!」
これを視点を逆にして『記・紀』の解明という方向から考えても、
倭迹迹日百襲姫たちはこれまで系譜だけしか知られていないために、
「欠史天皇」と呼ばれてきた
3代安寧天皇から9代開化天皇までの7代の中の人物で、
僅かに百襲姫と弟の事跡だけが「崇神天皇紀」に登場するが、
『古事記』には「崇神天皇記」にも記載されていない。
だから、これまで名前だけしか分かっていなかったそれらの人々が、
『魏書倭人章』で活躍している人々の記録の中に見つかれば、
解明不能とされてきた欠史天皇の謎もまた解け始める。
こうしたこと全てが、
我が国の建国史にとって何よりも素晴らしい、画期的な発見なのである。
それは、この部分からも例を挙げることができる。
『古事記』の「崇神天皇記」に彼女が登場しないというのは、
百襲姫という名が出ないというだけで、そこにも
「意富(オホ)美和之大神」という名で語られる『三輪山伝説』があり、
百襲姫でなく「活玉依毘売」がヒロインになっている。
ここではその伝説に余り脱線できないが、
先に箸墓古墳を検討した際、
この伝説が重要な役割を果たした直後だから念のためお断りしておくと、
『古事記』では、大田田根子(意富多々泥古)が大物主の子ではなくて、
子孫であるという説明として語られる。
これは『日本書紀』の「亦云=または云う」を読み損なって、
大物主と活玉依毘売から5代目の子孫にしてしまっている。
これも『古事記』が偽書だという明瞭な証拠になったのである。
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2012年9月28日金曜日
卑弥呼と百襲姫の一致が次に生むもの
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:3頁
《卑弥呼と百襲姫の一致が次に生むもの》
「卑弥呼と百襲姫の一致が次に生むもの」
卑弥呼の旁国の領域と、
倭迹迹日百襲姫の名乗りの領域とが、
完全に一致することが大学講義録15で確認できた。
「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫」説は正しかったことが、
これだけでも充分立証されたが、
旁国の所在が17世紀後の現代でも確認できた事実は、
『魏書倭人章』の記録が優秀で、帯方郡使が見聞した真実を、
正確に記録したものだったという信頼度をさらに高めた。
それはまた同時に、
この来訪郡使の貴重な遺産をさらに有効に活用すれば、
私たちの史実の記録と知識の量を増し、質を高め、
さらに充実させることができる。
と確信させる。
たとえば『魏書倭人章』に彼女と同時に登場する人々は、
『記・紀』の中の誰々で、
それはどんな役割を果たした人物だったか、といったこととか、
彼女の宮室に出入りして言葉を伝えた唯一の男子とは、
一体?『記・紀』の中の誰に当たるのか。
また仇敵になった狗奴国男王の位宮は
卑弥呼とは無縁の他人だったのか、
それとも血縁者なのか?、
等々といったことがどうしても知りたい。
そうしたことがわかれば、
外国人の魏人が始めて見た倭人の別世界を、
客観的に観察して記録した赤裸々な史実と、
これまで疑惑と盲信が激突したまま置き去りにされていた
『記・紀』の記事とが比較できて、
暗闇の中に放置されていた謎と疑惑が消滅し、
両者の一致点が『記・紀』の記事を「史実」にまで高めることになるからである。
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2012年9月27日木曜日
卑弥呼時代の旁国所在地一覧リスト
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:35~36頁
《卑弥呼時代の旁国所在地一覧リスト》
「卑弥呼時代の旁国所在地一覧リスト」
1 斯馬 sieg ma シェマ 島津之庄 (宮崎県都城市)
2 己百支 sieg bak tieg シェバチ 志布志町 (鹿児島県曽於郡)
3 伊邪 iar dzia イァジャ 伊作 (鹿児島県日置郡吹上町)
4 都支 to tieg トチェ 高城 (鹿児島県西部川内市)
5 弥奴 miar no ミャノ 宮之城町 (鹿児島県西部薩摩郡)
6 好古都 xog ko to カゥコト 加久藤 (宮崎県西部えびの市)
7 不呼 pwo go プォゴ 方後 (鹿児島県肝属郡大崎町)
8 姐奴 tsiet no チッノ 月野 (鹿児革県曽於郡大隅町)
9 対蘇 twad so ツァソ 帖佐 (鹿児島県姶良郡姶良町)
10 蘇奴 so no ソノ 襲・曽於 (鹿児島県姶良郡と曽於郡)
11 呼邑 go iap ゴヤフ 児湯郡 (宮崎県中央部)
12 華奴蘇奴 ga no so no ガノソノ 肝属郡 (鹿児島県肝属郡西部)
13 鬼 kiweg キゥグ 琴玖 (熊本県球磨郡)
14 為吾 gwia ngo グイヤンゴ 五位野郷 (鹿児島市最南部)
15 鬼奴 kiweg no クェノ 栗野町 (鹿児島県姶良郡北部)
16 邪馬 dzia ma ジャマ 上屋久町 (鹿児島県屋久島北部)
17 躬臣 kiung dien キゥデ 喜入町 (鹿児島県揖宿郡)
18 巴利 pag liad パリァ 隼人町 (鹿児島県姶良郡南部)
19 支惟 tieg dien チディワ 千石町 (鹿児島市中央部)
20 烏奴 o no オノ 小野 (鹿児島市西部)
21 奴国 no ma ノマ 野間 (鹿児島県種子島中央部)
狗奴 ku no クノ 屋久町 (鹿児島県屋久島南部)
《卑弥呼時代の旁国所在地(地図)》
「卑弥呼時代の旁国所在地(地図)」
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2012年9月26日水曜日
邪馬壹新政権成立後の移動、拡大
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:34頁
《邪馬壹新政権成立後の移動、拡大》
「邪馬壹新政権成立後の移動、拡大」
これで旁国と百襲姫の名乗りが全く同じ地域を指すことと、
張政の滞在中にも奴国が種子島から九州中央部へ移って超大国化し、
方後が方前を生んで後の豊後と豊前になったように、
旁国が時代とともに移動拡大して行った事実が、まるで眼で見るようにわかった。
その移動の理由も、
不弥=豊前の「前」とは「前進基地」を意味し、
邪馬壹国誕生直後に生まれた不弥国は、
まぎれもなく新政権の前進基地として配置されたのだとわかる。
また不弥の発音は、
マエをミヤーと発音しているから、
先にお話したように、
尾張弁すなわちウワイ語=倭語であったこと、
それが後にブゼンに変化したのだと正確にわかる。
卑弥呼女王国の旁国が、
卑弥呼の死後にこうして移動、拡大した事実は疑問の余地がない。
その最大の証拠は、後世の本州、四国に分布する旁国と同じ、
またはその子孫であることの確実な発音をもつ大国が分布していることである。
そうした古代大国があるために、
単純な国名比較しかできなかった過去の邪馬台論者らは、
いい加減な思いっきでそれらを『魏書倭人章』の旁国だと思い込んでしまい、
とんでもない迷路で右往左往することになったのである。
しかし私たちは、
それらの大国が、旁国の条件にどんなにはずれているか、
そのサイズがまるで違い、
一つの旁国中に他の旁国や敵国までが入っている実例を最初に見ている。
旁国が構成していた卑弥呼の女王国と百襲姫の名乗りが示す地域は、
当然、同じものでなければならない。
それを見比べてみると、まだ修正が必要な旁国がみつかった。
それは熊本県菊池郡の子養だとした為吾 gwia ngo で、
これはその移動前だとした鹿児島市の五位野に戻して、
五位野郷=グイヤんゴーとし、呼邑 go iap ゴヤフを宮崎県児湯郡だとすると
隣接関係が生きてきて空白域が少なくなり、そのほうが正しいとよくわかった。
このことで、私たちは仮説を過信することなく念には念を入れて、
あらゆる角度から観察して
不合理点を修正、消去して行かねばならないという教訓を得た。
次に修正後の最終リストと地図を作成して、
旁国の謎解きは一応終了しよう。
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2012年9月25日火曜日
百襲姫の名乗りの真相
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:33頁
《百襲姫の名乗りの真相》
「百襲姫の名乗りの真相」
では倭迹迹日百襲姫の名乗りが、どういう構造になっているか?
改めて確かめてみよう。
「倭」
これは都の跡に残った地名・上井のことではない。
卑弥呼が君臨した女王国全体の大義名分である
「優婆夷国女性仏教信徒の国」を世界に標榜するトップ・ネームなのだ。
「迹」
この発音は漢魏音だとセキだが、
『日本書紀』が使う当て字だから8世紀も和訓で
「跡=アト」を意味する語「ト・トー・ツ」である。
これは支配圏の南限を投馬国とみて、その頭音「トー」とみると、
名乗り全体が表現する地域配列からみて合理的になる。
するとこれは十島村だけでなく大島郡全域を指し、
十島はその当時の国名の名残りを止どめているのだということになる。
投馬国も張政の追加国名だが卑弥呼領だった可能性は充分ある。
「迹」
鹿児島県の西南瑞、大島から北上すると次のブロックは薩摩半島南部だから、
これはその首都である現在の川内市で、
その古名である都支(トチ)国=現在の高城(タキ)が最適である。
「日」
これは「後の小国日本=今の鹿児島県」の中央部、
首都のある巴利国のマレー語式訳語である「日」であって、
日向・日本の語源になった地域、姶良郡と薩摩郡一帯。
「百」
前ページで説明した通りで、種子島から肝属郡にかけての大隈半島南部。
「襲」
文字通り「襲の国」で、古代蘇奴国。
曽於郡から姶良郡東南部+宮崎県南部。
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2012年9月24日月曜日
豊玉姫から豊前・豊後まで
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:32頁
《豊玉姫から豊前・豊後まで》
「豊玉姫から豊前・豊後まで」
また15~17頁の百襲姫の名乗りは、
この豊後から方後への修正で、
より一層、確実度を増して、僅かに不安感を残していた疑問が払拭された。
それは「百」をポセイドンに由来する百済という、やや漠然とした、
具体性の少ない説明で終わるしかなかったものを、
さらにより具体的に、完全なまでに説明できるように、
大きく改善されたからである。
方後のホーは、確かに百済のホであるが、
それは彦穂穂出見や狭穂のホだけでなく、
豊玉姫の豊=ホーであり、それが現在の野方に移って方後のホーになり、
さらにその後、豊後・豊前を生んだホーでもあったから、
それらは過去の名詞の読み違えも、完全なものに修正してくれる。
豊玉姫はトヨタマヒメではなく、大隅語で「ホツマヒメ」と読むのが正しいし、
豊前は、やはりホーミヤが先で「不弥」の発音に一致し、豊後もホーゴが正しいから、
肝属郡の方後こそ、間違いなく「不呼」の跡だと断定してよく、
それらを「ブゼン・ブンゴ」と発音するように変えたものは、
ホをフと発音する沖縄語の支配者が卑弥呼に取って変わったからで、
それは与那原=徐那伐で即位した伊江島出身の壹與の国・邪馬壹国が、
九州北部を傘下に収めたことを意味する、ということになる。
私たちの「言語復元」はまここまで徹底して行なう必要があり、
それでこそ真実を確証する史実が復元できるのである。
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2012年9月23日日曜日
修正、不呼国は曽於郡大崎町野方
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:31頁
《修正、不呼国は曽於郡大崎町野方》
「修正、不呼国は曽於郡大崎町野方」
卑弥呼の女王国を構成していた旁国は、
鹿児島から宮崎県プラス熊本県の南部にあったことかほぼ把握できた。
これで卑弥呼の国がどんな国だったか、版図もよくわかった。
だが検算のため地図を作成してみると、
どう考えても不呼国が不合理な離れ過ぎ方をしているので再考した結果、
間違いと正解が見つかった。
お詫びしてここで修正させて戴く。
大学講義録12の15頁で、
「不弥・不呼は卑弥呼時代の豊前・豊後」と性急に決めてしまつたが、
不弥は邪馬壹国誕生後に、南海から移動して大国化した奴国と同じく、
張政が伊都国の後に追加した記事の中の1国で、卑弥呼の旁国でないことはもちろん、
卑弥呼時代にはそこには無かった国なので、不呼もまだ豊後にはなっていない。
確かに豊後は不呼の後身ではあるが、
卑弥呼時代には、まだ九州北部にあるはずのない国だった。
ではどこにあったのか?。
『倭名類聚鈔』の大隅国・曽於郡は5箇村から成るが、
その甲に「方後」という村がある。
これは「ホーゴ」だから、
不呼 pwo go が、p 音を失って日本語化した、
発音にぴったりの地名だ。
『倭名類聚鈔』は10世紀の記録だから、
3世紀の名がそれまでまだ残っていたこの方後こそ、
卑弥呼女王国の旁国不呼だと断定していい。
そこは現在の大崎町野方に当たるが、
小字(こあざ)が37もある希にみる巨大な大字(おおあざ)で、
これも古代旁国の名残りだという証言である。
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2012年9月22日土曜日
躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:29~30頁
《躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に》
「躬臣は喜入、支惟は千石、烏奴は薩摩半島に」
ここで再び「旁国」に戻って、
残る躬臣国、支惟国、烏奴国の3カ国を解明してみよう。
17 躬臣(キウンデン or キウデン)国
この国は正確な漢魏音で kiung dien キウンデンまたはキウデンと読める。
最後の「ン」は南九州語の助詞の「ノ=の」とみて取り去ると、
今も「キウデ」と発音する人のある「給黎」という姓がある。
これは今「喜入」と用字が変わっている揖宿郡喜入町の古名だから、
候補地は喜入町周辺、薩摩半島の東部、鹿児島湾に面した沿岸地域である。
しかし kiung dien に、より以上に発音の似た地名が、
九州北部に現存しるいるので、
これも候補地に挙げないわけにはいかない。
それは佐賀県唐津市宇木(ウキ)にある汲田で、クンデンと発音する。
これはカールグレンの発音から
正確に2つの「 i 」を取った形になっているので捨て難い。
しかしそこは帯方郡使が上陸した末盧国に余りにも近過ぎるので、
遠絶しているという旁国の条件に合わないから、
給黎からの移住か何かで後世につけられた地名である可能性も考えて、
旁国の比定地には喜入のほうを採用しておく。
19 支惟(チディワ)国
この国は tieg diwar チディワ で、
ぴったりの長崎県南高来郡千々石町がある。
これと発音は異なるが、
非常によく似た千石町が鹿児島市にある。
これも古代には千々石だったものが、
省略されて千石になった可能性を考えて、
挙げておくことにした。
20 烏奴(オノ)国
o no オノ で、同じ発音の小野が
鹿児島市と鹿児島県川辺郡川辺町と日置郡吹上町と
熊本県鹿本郡植木町と
長崎県佐世保市と諌早市と
大分県の大分郡挟間(はざま)町と西国東(くにさき)郡大田村にあり、
尾野が福岡県山門郡山川町にあるが、
鹿児島県熊毛郡尾久町にある尾の間(おのあいだ)は、
今では間をアイダと発音しているが、
対岸の島間(しまま)はマという古代の国称を残しているので、
尾の間も古代にはオノマすなわち烏奴国(オノマ)だったはずで、
このオノの分布地が九州西部を北上していることから考えて、
それが次第に広がっていったものとみていい。
これらのオノのうち、
どこが卑弥呼当時の旁国だったかは、
決定的な記録がなく不明だが、
旁国は卑弥呼の勢力圏の内にあり、
他の旁国が後の「小国日本=ほぼ鹿児島県域」にあったことで、
鹿児島県内だったとみるのが妥当だ。
しかし尾の間は当時はすでに狗奴国の中に没入してしまっているから、
あくまで先住地であって、絶対に卑弥呼当時の旁国ではない。
では手掛かりは全く無いかというと、そうではない。
この名の場合は、他の重要な名詞と同じ発音をもっているからである。
オノは鉄器時代に入ってからは、「斧」の日本名として普及した。
こうした名は製作地の名が品名にもなる。
ことに鉄製の武器・利器はそれが通則で、
備前長船(おさふね)は刀剣、
種子島は鉄砲、
南部は鉄瓶といった例にこと欠かない。
これを手掛かりにすると、
銅器時代がなく鉄器先進国で、
日本最古の鉄器が出土した
薩摩半島地域が有力な候補地として篩(ふる)い残される。
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2012年9月21日金曜日
日本史学中 最大の史料地名
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『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:28頁
《日本史学中 最大の史料地名》
「日本史学中 最大の史料地名」
旁国の邪馬国と巴利国とが、その後どうなったかを尋ねると、
これまで卑弥呼の墓とされ、邪馬台国が奈良に実在した証拠だ、
とされてきた箸墓古墳とその周辺の遺跡と地名が、
実は何だったか、はっきりその正体を現わした。
それは天智が発案し、天武が命令し、
その後継者の女帝たちが完成させた
対唐媒略用宣伝文書『日本書紀』補強用の道具立てだったのだ。
だからそれらは全て卑弥呼らとは無関係な、後世に工作された「人工的な」地名で、
本来の倭国史とは縁遠い空疎な作品にすぎない。
だが、その対唐工作の実態が見えると、
それらは『日本書紀』の実像を浮き彫りにしてみせてくれると同時に、
7~8世紀の日本人が現代人にも勝る
知性と教養の持ち主だったことも明確に立証した。
それは予想外の成果で日本史の基礎的な大問題を解決する史学中でも、
最大の史料地名になったのである。
このことがあったので、
一見、旁国とは無関係に見え、脱線に見えたかと思うが、
あえて強引に箸墓を中心にしてお話しを進めた。
このように学問には舞数のチャンズがある。
もちろん歴史はあらゆるものに関連をもっているから、
幾らでも補強材料に使えはするが、
その中から最適のもの一を選ばないと逸脱して主題を見失なう。
これらの例は、主題の本質を見失なわずに活用できる好例として、
特に力をいれてご覧いただいたのである。
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2012年9月20日木曜日
邪馬台国大和説は反天皇家工作
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:27頁
《邪馬台国大和説は反天皇家工作》
「邪馬台国大和説は反天皇家工作」
卑弥呼が奈良にいたという邪馬台国大和説が正しいとすれば、
卑弥呼は3世紀に作られた奈良県下の大冢に葬られたということになるのだから、
その地元の奈良にいた代々の天皇は、それがどの古墳かよく知っていて、
それを最高の皇祖である天照大神の墓として尊察し、
毎年最高の祭祀儀式を欠かさなかったはずである。
だが、そんな記録も事実も一切ない。
また倭とは女性仏教徒という代名詞だから、
その祭祀は仏式で供養しなくてはならないし、
7世紀までは卑弥呼の伝統は破れる理由がないから、
代々女王が君臨しなくてはならない、
政府が公式に作った『日本書紀』の天皇たちは女王制でなく、
男性天皇が主流である。
また天照大神は奇妙にも伊勢に祭られて、
わざわざそこまで出かけて行って参拝している。
それなのに彼女を祭ってあると
『日本書紀』に明記してある箸墓は見向きもしないばかりか、
倭迹迹日百襲姫は、
卑弥呼とも天照大神とも別人だとしている。
これでは同じ奈良に不動の都を置いていたにしては、
余りにも皇祖と伝統に不忠実すぎて、
敬神崇祖の伝統が生命である天皇家という根拠が信じられなくなる。
こうして正確に判定すると、
邪馬台国大和説は天皇家への信仰を根底から揺るがす目的で、
事実無根のニセ学説を故意に捏造して破壊工作を進めてきた
仮想敵国または集団の陰謀説だったとみるほかない。
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2012年9月19日水曜日
長い移動を立証する分裂伝説群
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:26頁
《長い移動を立証する分裂伝説群》
「長い移動を立証する分裂伝説群」
また仮に桜井市の大神神社が卑弥呼時代のものだとすると、
そこに伝わる記録は、
多少の誤伝はあるにしても、
私たちが知る複数の『三輪山伝説』群ほどに大分裂することはない。
その中でも箸墓伝説はことさらに変形がひどい。
3世紀から7世紀までは400年、
ノストラダムスから現在までよりも、まだ短い。
世襲の語り部がいた古代は、むしろ発音の聴き違いは少ないから、
大きな変化がみられる場合は、
伝承の途中で「言語の違う人々が大きく誤解した」証拠である。
「言語は土着する」という不動の鉄則があるから、
仮に倭国政権が奈良に土着したまま400年を経過したのなら、
伝承がそんなに変形するはどに
「大きな言語の違い」が混入する可能性はまず絶対にない。
だからこの『三輪山伝説』分裂の事実が教えるものは、
その原話の事件があった地点から桜井に落ち着くまでに、
数々の言語差のある地域を、
長年月をかけて通過してきたからこそ、
様々な誤解が入り混じって、
幾つもの異伝が生まれたのだという動かない真相である。
こうわかると、その異伝の内容を分析してみれば、
どこの言葉と、どこの言葉とが出会ったために、
どんな変形が生まれたかを判定できる。
しかし今は余り脱線しすぎるから後日に譲るが、
それもまた倭国大移動が真実だったことを完全に証明することは間違いない。
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2012年9月18日火曜日
異口同音に記録されている倭国東遷
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:25頁
《異口同音に記録されている倭国東遷》
「異口同音に記録されている倭国東遷」
この国分市の大穴持神社と、
桜井市の大神神社の命名法の差は、
明らかに卑弥呼に対する軽視と尊信との差を明瞭に教えてくれる。
国分では卑弥呼を落伍者とみているのに対して、
桜井では、
この世で最高の存在である「大神」として祭っているからである。
このことは国分は敵に乗っ取られた首都であり、
桜井は国分での敗北者が移動して
新たに都を置いた遷都先であったことを記録している。
それは7世紀の国名が、
鹿児島県のほうは「日本」という卑弥呼の敵の国名に変わっていたのに対し、
近畿のほうは3世紀の卑弥呼当時のまま、
全く同じ「倭国」だったことでも立証できる。
間違いなく卑弥呼系の政権は南九州を捨てて東へ東へと移動拡大して行った。
それは『宋書』『隋書』『唐書』の倭国史でも明瞭だ。
仮に倭国が3世紀当時のまま不動だったのなら、
中国正史は全部ウソつきになる。
過去の史学者は、こうした文献批判と採択法を知らず、
考え出す能力もなかったために、
『魏書倭人章』にある倭国と同じ名の国が7世紀にあった場所が、
卑弥呼のいた土地だ。
としか理解できず、邪馬台国大和説や畿内説を宣伝して日本の史学を泥まみれにし、
その唯物史観学者の思いっき説を盲信した文部公務員が、
祖先たちの尊い建国史を義務教育から抹殺したまま
21世紀を迎えるという世界の笑いものに、
私たち日本人を落としてしまったのだ。
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2012年9月17日月曜日
もう一人の大国主=大穴持は卑弥呼
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:24頁
《もう一人の大国主=大穴持は卑弥呼》
「もう一人の大国主=大穴持は卑弥呼」
これに対して卑弥呼のほうは、
それより400年も前の事件で、
事代主(コトシロヌシ)はいたが恵比寿はいない。
事代主というのは
「言代主(コトシロヌシ)」と言換えてもいい人物のことで、
平素は宮室に籠(こも)って姿をみせない卑弥呼に代わって、
言葉を伝え仕事を代行する人物のことで、
『魏書倭人章』には
「唯 有 男子一人 給 飲食 伝辞 出入 居処=
ただ一人の男性だけが、卑弥呼の居室に出入りして、
食事を運び、言葉を取り次ぐ」と記録している、
その男性が正に事代主の名にぴったりの人物なのである。
この大国主としての卑弥呼を祭る神社も、
古代の隼人=巴利国の遺跡である国分市に現存している。
大穴持神社がそれである。
大穴は大国をオオナと発音したものへの当て字、
「持」はモチの沖縄~大隅発音で「ムチ」、
これは天照大神を
「大日霊の貴=オオヒルメのムチ」などと書く専称「貴=ムチ」を、
わざと無意味な「持」の字に変えた当て字である。
このことからも卑弥呼が敗北者だったことと。
この神社を建てた彼女の敵=征服者らが、
彼女を余り専敬していなかったこと。
彼女が宮室に籠(こも)って姿を見せなかったことと、
彼女の死を「天の岩戸隠れ」として伝えたこととを重ね合わせて、
それを「大穴の所有者」と表現することのできた
高度の知性と文化の持ち主だったこと、
などが明瞭に浮かび上って来る。
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2012年9月16日日曜日
出雲神話は7世紀の馬子と蝦夷の国譲り
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
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『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:23頁
《出雲神話は7世紀の馬子と蝦夷の国譲り》
「出雲神話は7世紀の馬子と蝦夷の国譲り」
倭国が、文字通りオオクニだったという話が出たついでに、
「大国主」についてお話ししておく必要がある。
それは卑弥呼だけでなく、複数の該当者がいるからである。
そのうちで最も近世の人物は蘇我の馬子だ。
なぜなら大国は「ウマ」だから、ウマコとは「大国子」で、
これに助詞の「ノ」を「ヌ」と発音する沖縄語を挟むと「大国ヌ子」。
これはオオクニヌシと発音されて大国主という当て字を生む。
またウマコへの当て字のうちに「得目子(ウマコ)」があれば、
目を沖縄語で「ミ」と発音する名残がある大隅語なら「エミシ」と読む。
このエミシに「蝦夷」という文字を当てると、
蘇我馬子の子の蘇我蝦夷と同名になる。
馬子も蝦夷も本来は個人名ではなく、
大国子という一つの代名詞を、
文字を変えて親子の名に代用しただけのもので、
これには更にもう一例、同時存在者の名乗りも該当する。
それは聖徳太子の名乗り「厩戸」である。
これはウマヤドではなく、
ウマコに対する当て字の一つであることが、
一見しておわかりになると思う。
またそのエミシに恵美子と当て字すると、これをエビスと読む者もある。
だからエビス・ダイコクも親子2人の別人の名ではない。
しかし『記・紀』の出雲神話にもとずく大国主と恵比寿三郎親子の話は、
間違いなく7世紀の馬子と蝦夷の国譲りがモデルなのである。
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2012年9月15日土曜日
卑弥呼以後も移動発展を続けた倭国
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
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『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録15:22頁
《卑弥呼以後も移動発展を続けた倭国》
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こうして調べれば調べるほど、卑弥呼の鬼道とは仏教であって、
それも我が国での名詞が中国で僧の称号や普陀落の山号として使われるほどの
仏教先進国だったことがわかる。
また倭国は卑弥呼の死後も滅亡せずに移動し続けて、
少なくとも7世紀後半までは唐政府が
「大国=倭国」と認める名実ともに備わった立派な
オオクニだったのであり、
その支配圏も近畿の中央部大阪府域まで拡大しつつあったことが、
よくおわかり戴けたと思う。
だが鹿児島に本国を置き、
九州から朝鮮半島に支配地や植民地を拡大していた小国・日本は、
7世紀の後半になって
唐の後押(あとお)しを利用して半島諸国を征服し、
大国・倭国を攻撃してその支配権も手に収めた。
天智天皇の男王政権である。
しかし倭国と組んだ天武天皇は、
その天智天皇系の大津政府を倒して政権を奪ったが、
唐の侵略に備えてあらゆる手をうった。
これで『箸墓伝説』は何であったか、
それがなぜ奈良県下の歴史遺産として、
わざわざ特記されているのか、
それを載せた『日本書紀』とは何を目的に作られた、
どんな書物であったかが、よくおわかり戴けたと思う。
以上の結論が正しいことは、
『日本書紀』編纂直後に提出された
傘下各国の『風土記』をみて戴けば、
箸墓伝説と同種のコジツケ説話が充満しているので、
さらによくご納得がいくと思う。
比較して独自にご検討戴ければ幸いである。
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