2012年8月28日火曜日
箸墓を248年とする編年は間違い
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録14:31~32頁
《箸墓を248年とする編年は間違い》
「箸墓を248年とする編年は間違い」
しかし箸墓は日本の考古学では、
ひときわ重要な地位に置かれてきた一大エポック・メーカーであった。
それは、文献上、最初に記録された古墳であると考えられる
『魏書倭人章』の「大冢(ちょう)」造営記事=卑弥呼の死後
「大 作冢 経百余歩=大掛かりに、長径約150mの冢を作った」という記事を、
日本「最古の古墳」築造記録と規定して、箸墓がその卑弥呼の大冢で、
それが造成された248年から
『古墳時代』が始まったのだと教え続けて来た。
箸墓こそ日本建国史上、文化財のトップに位置する遺跡であり、
初期ヤマト政権の成立時期を確定立証する最大の時標、
最良の定点だとしてきたのである。
箸墓と同年代土器は、248年の3世紀半ばを示す座標として、
「古墳時代土器」編年の起点でもあった。
ところが1995年12月7日、奈良県の桜井市教育委員会が、
同市箸中の「ホケノ山古墳」が
箸墓よりも古い日本最古の前方後円墳だと発表した。
根拠は、
同墳後円部の北側に付属する空濠(からぼり)の底から
大量に出土した土器のほぼ全てが、
薯墓造営当時の「布留O式」土器で、
それもホケノ山古墳築造当時ではなく、
築造後かなりの年月を経た後に、
一纏(ひとまと)めにして捨てられたものであることが、
明瞭にわかったからだった。
こうして考古学上からも箸墓古墳は
我が国古墳時代の最初の古墳ではなかったことが、
大量の物証によって立証されたのである。
ホケノ山古墳は箸墓から東に約200mしか離れていない。
箸墓古墳は大きいから造営には大勢の人が動員されて
付近の至るところに飯場が造られた。
当然、大量の食器や調理器などの土器が必要だった。
土器は破損し易く、破片は硬いから、
日常裸足で歩いていた当時の人々には危険物だった。
そのため空濠に捨てたのである。
箸墓造営中に割れたものも捨てたが、
造営が終って人々が引き上げる時には、
大量の土器が不用になって捨てた。
こうしたことは箸墓古墳造営以前にホケノ山古墳がなければ、
箸墓を造った当時に不用になった土器を、
ホケノ山古墳の空濠に大量に捨てることなどできない。
仮に箸墓が先でホケノ山のほうが後に造られたのなら、
箸墓造営時の不用土器を、
存在しない古墳の濠に捨てることなどできないし、
また古墳はなくても外濠だけあって、
そこに捨てたのなら、
ホケノ山古墳を造る時には濠に土が入って埋まってしまうはずだし、
土を掘って古墳を盛り上げた跡が空濠になったのなら、
そこに過去の土器片が堆積しているはずがない。
ホケノ山古墳が箸墓より古いことは、
どこからみても疑いようがない。
卑弥呼の大冢から古墳時代が始まったという主張は、
この箸墓を卑弥呼の墓だとする限り崩れてしまった。
箸墓を248年とする編年も間違っている。
箸墓の本当の築造年代は今後の研究課題なのだ。
『崇神紀』の箸墓物語は、
大和朝廷を古く見せ、権威づけるための時代付け用に、
アカイヤ伝承を改作して百襲姫の墓に仕立てた、
天武天皇流の8世紀の作品にすぎない。
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