2012年8月3日金曜日

首都占領で収まった倭国内乱



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録14:8頁

 《首都占領で収まった倭国内乱
 「首都占領で収まった倭国内乱

 では皇国の都、邪馬壹国も同じ地域だっただろうか?。

 古代の政権争奪戦というものは、

 旧政権軍がどんなに敗れても、

 国民に情報が伝わらなければ旧政権は居据(いす)わることができるので、

 新政権側の革命軍は政敵の本拠を完全に乗っ取らないと、

 政権交替は成立しない。

 位宮・壹與軍は、旧政権の卑弥呼派を隼人から追い払って旧都を占拠する以外に、

 自分たちが新支配者であることを内外に知らせる手段がなかったのである。

 『魏書倭人章』は

 卑弥呼死後の無政府状態とその収拾を、

 次のように描写している。

 「更 立 男王 国中 不服 更 相誅殺 当時 殺 千余人 

  復 立 卑弥呼 宗女壹與 年十三

  為王 宮中 遂 定 = 

  卑弥呼の後継者として男王が即位したが、国中で不服の声があがり、

  内戦が再発して国民同士互いに殺しあい、

  この時、千人を超える死者が出た。

  そこでもう一度、  

  卑弥呼の後継者として十三才の少女・壹與を女王として即位させたので、

  ようやく動乱が収まって全国が安定し平和を取り戻した」。

 大隅「一」の宮は「壹與」の宮という意味なのである。

 この時の戦況は前回の大学講義録13でも、

 壹與が神功皇后として戦い、

 宮之城でカゴサカ王を倒した例などをお話ししたから、

 ただ単に

 「卑弥呼の養女というだけで女王に据えられたのではない」ことも、

 よくおわかり戴いていると思う。


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