2012年8月24日金曜日
百済・武寧王は、武内一族
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録14:24頁
《百済・武寧王は、武内一族》
「百済・武寧王は、武内一族」
この事実をはっきり証言する、
さらに有力な証拠は、
『三国史記』の百済王の名と記事、
『日本書紀』の百済関係記事と、
武寧王陵の実在とその出土品などであるが、
それは余りにも本講の今の主題とかけ離れた別の大きな問題なので、
ここでは王名だけを見てみよう。
百済の発祥地大隅諸島から出発した壹與の義父は、
武内宿祢とも呼ばれたことがわかった。
彼は壹與を神功皇后とする
『記・紀』の記録には、
皇后を補佐して三韓を属国にした最大の人物として特記されている。
だとすれば以後の百済王は武内宿祢の子孫であるから、
それがどこかに痕跡を残している可能性が高いはずだ。
そこで『三国史記』百済本紀を虱潰しに読んでみると、
第25代の百済「武寧(ムネイ)王・斯摩」の名があった。
これは「内」をネイと発音する朝鮮語では、
「武内」をムネイと発音したものと同じになる。
また彼の諱=忌名(いみな)である「斯摩」もスマと読めるから、
「宿祢」をスメと発音したものをスマと訛ったものに合うし、
また「斯摩」を『日本書紀』にある伝記どおりシマと読んでも、
種子島にあった斯馬国=島間か、
それが移動した斯馬=嶋津の庄、
または糸島かを、
所領にしていた名乗りとみて不都合はない。
どこからみても武内一族だったことは決定的だ。
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