2012年8月26日日曜日
百済始祖王は九州にいた隼人『三国史記』の記録
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録14:26頁
《百済始祖王は九州にいた隼人『三国史記』の記録》
「百済始祖王は九州にいた隼人『三国史記』の記録」
朝鮮半島の百済の前身だった馬韓(マカン)国。
その名は何を意味しているのだろう。
『三国史記』百済本紀第一の、
始祖王の章に
「其 世系 輿 高句麗 同 出 扶餘 故 以 扶餘 為氏=
その王実は高句麗と同じく扶餘から出ている。だから扶餘を姓にしている」
と百済王家が扶餘人=隼人出身だったことを特記している。
扶羊風・扶揺風と書いて「ハヤのカゼ」と読む。
扶餘もこれと同じ「ハヤ」という、発音への当て字の一つなのだ。
ご存知のように位宮は高句麗・山上王だったから両王統に属している。
この記事は真実である。
また同じ章の二年と三年に
「靺鞨(マカラ)が北の国境を荒らす」という記事が連続し、
その八年には三千人が侵入してきて慰礼城を囲んだとある。
この城の名は「イリキ」と読むと
鹿児島県薩摩郡の「入来」町に一致するし、
その靺鞨が兵糧がなくなって北へ戻ったのを
追いつ追われつして戦った戦場も、
大斧城(大野城(キ))=福岡、
馬首城(マスキ)(益城)=熊本、
瓶(カメ)山(亀山)柵=宮崎、
立城(タキ=高城)柵=鹿児島と、
全部が九州の地名と遺跡に合う。
九州の北には朝鮮半島しかないし、
そこにいて攻めてきた「マカラ」は、
「馬韓」もまたマカラと読めるから、
馬韓人だったのである。
しかしこの時の馬韓人は必ずしも半島だけにいたとは限らない。
馬の国=馬津国(マツラ)で、
これは松浦=末盧国に一致するからである。
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