2012年8月2日木曜日
遺跡が充満した邪馬壹国の跡地
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録14:7頁
《遺跡が充満した邪馬壹国の跡地》
「遺跡が充満した邪馬壹国の跡地」
この山幸の名は邪馬臺からは絶対に生まれないから、
邪馬臺という国名や名乗りが絶対に存在しなかったという動かぬ証拠である。
以上からだけでも、
邪馬壹が実在で邪馬臺は架空だと完全にわかるし、
その所在地も南九州以外ではありえないことが徹底的に理解できる。
これで『海幸山幸』は神話として作られた文芸作品だったのではなく、
本来は史実だったことも、より一層はっきりした。
敗けた海幸は史実では卑弥呼政権であり、
崇神天皇たちであった。
彼らは勝者・山幸に政権を譲って臣従した。
宮廷の儀式に隼人舞いを舞う
隼人族は海幸の子孫だと『記・紀』ともに記録しているから、
卑弥呼政権当時の首都は今も隼人の名を残す鹿児島県姶良郡の隼人町
(後世の行政区画の変動で今の国分市が生まれるなどしているから
現在の隼人町域のことではない)
を中心とした地域以外にはありえない。
そこには卑弥呼の名をそのまま止どめる
姫木山(ヒメコヤマ)や、
原始仏教の日本全国の総元締だった
大隅八幡(大隅一之宮=鹿児島神宮。
祭神は蛭子の命=八幡大菩薩)や、
石軆(せきたい)(実は石禮(イワレ))神社=高千穂の宮、
熊襲梟帥(たける)が暗殺された遺跡、
天孫降臨伝承などがあり、
卑弥呼、
壹與、
オオヒルメ、
神武天皇、
神功皇后、
熊襲梟帥、
日本武尊
その他の史跡伝承に満ち満ちていて、
そこが卑弥呼政権最期の地だったことを今も証言し続けている。
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