2012年7月28日土曜日
決定的な壹與軍の上陸地
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録13:30頁
《決定的な壹與軍の上陸地》
「決定的な壹與軍の上陸地」
最後に、屋久島から海を渡った壹與らの勢力が、
鹿児島本土のどこへ上陸したかという記録についてお話ししておこう。
私(加治木義博)の著書ですでにご存じの
『大隅正八幡の縁起』には壹與がオオヒルメとして記録されているが、
彼女は「八幡」という男の子を連れて南の島から海を渡って来た。
その船がついたところを「八幡崎」というとある。
在来の説ではこの八幡をすべて「ハチマン」と読んでいるが、
壹與は邪馬の女王だから、
八幡は「ヤマン」への当て字なのだ。
八幡様とは「ヤマン皇子=シバの皇子」という鹿児島語でなければならない。
すると上陸点の八幡崎も「ヤマン崎」と呼ばれていたはずだ。
薩摩半島の最南端は揖宿(いぶすき)郡山川町の長崎鼻(ばな)である。
この町名は「ヤマガー」という発音だからヤマンと比較すると「ン」と「ガ」で、
これはどちらも助詞の「の」に当たる。
もとはヤマンだったが、のちに人為的に「ヤマガ」に変えられ、
山川という当て字が使われて一層、原形がわからなくされたようにみえる。
これはヤマンがすでに8世紀の発音で、
それをさらにハチマンと読ませることや、
高氏を意味するコーチを「川内」と当て字した上に、
さらにセンダイと発音させた
平城・平安時代の、
建国史実抹殺政策が、
殊に鹿児島県で深刻な事実と思い合わせると、
屋久島と最短距離にある山川町以上に決定的な上陸地はない。
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