2012年7月26日木曜日
奈良がヤマトになったのは8世紀
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録13:28頁
《奈良がヤマトになったのは8世紀》
「奈良がヤマトになったのは8世紀」
しかしその孝謙女帝が重祚(そ)した
称徳女帝が弓削(ゆげ)道鏡事件で退位、
光仁男帝のシンドゥ政権が固まって、
大和は
「邪馬徒=ヤマト=シバ教徒=シンドウ教徒」のものになってしまった。
国も首都も「ウワの国、ウワの都(みやこ)」ではなくなって
「ヤマトの国、ヤマトの都」と呼ばれるようになった。
しかし一般人は漢字が読めなかったから、
文字は元のままの大和で、読み方だけが変わって、
大和を「ヤマト」と読んだ。
それが今もなお踏襲され続けて、
ヤマトとはどんなにしても読めない、
発音とは全然関係のない大和という文字を、
なぜヤマトと読むのか?、
誰も説明できないまま、現在に至ったのである。
そのことは『地名語源辞典』などを見るとよくわかる。
それがシバ神の名に由来するなどとは考えることもできず、
古来のコジつけ説を集めて並べてゴマカしているだけである。
この「ヤマト」という発音が、
在来の邪馬台国大和説や畿内説の「唯一の拠り所」なのだが、
その肝心の奈良の大和がヤマトと呼ばれるようになったのは、
どんなに早く見積もってみても、
光仁天皇が即位した宝亀元年(770年)十月一日以後なのである。
それより500年から600年以上も前の
140~240年代の人である卑弥呼の時代に、
奈良が「ヤマト」と呼ばれていたことなど「絶対にない」ことが、
わからないようでは救いようがない。
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