2012年7月18日水曜日
シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録13:20頁
《シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩》
「シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩」
そして邪馬壹国が、
邪馬国と壹国とを組み合わせて、肝心の狗奴国の名を使わないのも、
そこに高天原という由緒ある都があったから、
そこは本国として移動せず、
占領した新領土は植民地とみて新たに邪馬壹国と命名した。
こちらの邪馬は邪馬国が移動したという意味ではなく、
「シバ派のシンドゥ教徒が支配する壹国(薩摩)」という
意味の国名
「邪馬の壹国」だったと読みとれる。
だが邪馬国は拘奴国とちがって、女王に属していたのに、
狗奴国と隣りあっていただけで反乱の先頭に立ったか?という疑問が残る。
この疑問がさらに深く真相を教えてくれる。
本講座では先に傍国の「弥奴(ミヤノ)国」が、
屋久島を代表する山岳の「宮之浦岳」や
上屋久町の首都だった「宮之浦」から出た国名で、
候補地は薩摩郡の宮之城町だとお話しした。
また私(加治木義博)の著書で、
その付近が、古代高句麗の支配者の居住地で、
歴代の高句麗王の諡号(贈り名)の大半が、
宮之城を中心にした周辺の地名であることを説明しておいた。
さらに高句麗の王には「宮」を名乗る王が二人いる。
一人は卑弥呼と同時存在の山上王・位宮で、
もう一人は彼の祖父・宮である。
この二人の名は宮之浦や宮之城という、
かつての国名と無関係ではありえない。
宮という名乗りは支配する国の名そのものだからである。
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