2012年7月31日火曜日

卑弥呼政権崩壊で変貌した女王国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録14:5頁

 《卑弥呼政権崩壊で変貌した女王国
 「卑弥呼政権崩壊で変貌した女王国

 「女王国 2」

 では、卑弥呼時代と壹與時代の2つの女王国は同じだったか。

 それは支配者が変わっただけでなく、

 信仰も版図も国民も変わった。

 それを最もよく理解させてくれるのが、

 前回すこしお話しした奴国(ノマ)である。

 その国は旁国のいちばん最後に

 「此 女王 境界 所尽=ここが女王国の境界が尽きるところだ」と書いてあり、

 続けて「其 南 有 狗奴国」と書くから、

 奴国が女王国の最南端の国だとわかるし、

 『後漢書』の「東夷・倭」章に「倭奴国…倭国之極南海也」と書く国も、

 この奴国以外にはありえない。

 ところがそれと、全く同名の奴国を『魏書倭人章』は伊都国の次に

 「東南 至 奴国 百里」と書き、

 その戸数をなんと「二万戸」もある大国だと書いている。

 伊都国から僅か6km弱しか離れていないのだから、

 伊都国に駐在していた帯方郡使が間違えるような国でも数字でもないことは確かだ。

 この大国・奴国から不弥国、邪馬壹国、投馬国までの4カ国の記事は、

 帯方郡から伊都国までの記事とは

 形式が明瞭に異なっていて筆者は明らかに別人だから、

 伊都国までの記事は梯儁が書いたものだが、

 奴国以下4カ国の記事は卑弥呼政権の崩壊で

 変化した実態を張政やそれ以後の情報で

 訂正追加した部分だとわかる。

 壹與時代になると女王国は人々の大移動や版図の変化があって当然で、

 明らかに卑弥呼時代とは別物になったのである。

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2012年7月30日月曜日

代々女王国に属していた伊都国



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録14:4頁

 《代々女王国に属していた伊都国
 「代々女王国に属していた伊都国

 原文を正しく検討すると以上のようになる。

 念のため4と5を改めて再検討してみよう。

 「女王国1」 

 伊都国の説明の最後に

 「世 有 王 皆統 属 女王国 郡使徒釆 常 所駐=

  伊都国は代々王のいる独立国だが、

  『皆統(かいとう)=王統の全ての王』が、

  女王国についていた。

  倭国に派遣された梯儁と張政の帯方郡使は、二度とも、この国に駐留した」とある。

 在来説ではこの「統」を「統治」と解釈して「続属する」などと読んでいたが、

 この原文は「世有王」が主語だから、

 「統」の字は「その代々の王たちの王統」という意味であって、

 「皆続」とは「その王統の王は皆」という意味の熟語なのである。

 また「属 女王国」は、

 そのすぐ後(あと)に狗奴国は「不属 女王」だと書いてあるのとの対語で、

 属国とは「つき従う国」「半独立国」だから、

 伊都国は女王国とは別の国だが、

 代々女王国につき、

 味方してきた国であって、女王国の一部でもなく、

 狗奴国のような敵対国でもなかったというのである。

 ではこの記事は二人の帯方郡使のどちらが書いたものか。

 「常に」と郡使を複数に書けるのは

 2度めの使節の張政しかいないから筆者は張政である。

 彼は卑弥呼に招かれて来倭して、

 卑弥呼の死と壹與の即位を報告した。

 卑弥呼時代から壹與時代へと変化しても、

 伊都国は両女王国に属国としてつき従った事実を、

 よく熟知して書いた明確な記録なのだ。

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2012年7月29日日曜日

倭を呼ぶ5種類の名



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録14:3頁

 《倭を呼ぶ5種類の名
 「倭を呼ぶ5種類の名

 卑弥呼政権を倒して新女王国・邪馬壹を樹立した位宮と壹與が、

 屋久島を出発して最初に南九州本土に上陸した地点が、

 山川という地名として残っていることまでで前回は終った。

 その後の戦闘の状況などは、

 卑弥呼と壹與を主題にした後の講座に譲って、

 今回は位宮らが都をどこに置いたかを、どうして確認すればいいか、

 お話しすることから始めよう。

 これまでは「邪馬壹国」という国名は、

 たとえば「邪馬台国の女王・卑弥呼」などという思い込みが強くて、

 卑弥呼が君臨していた「倭人達邦全体」の国名だと思っていた人が多い。

 ことに邪馬台国畿内説などは、

 それはヤマト=大和であり8世紀の日本と同じ国であって、

 奈良または付近の近畿地方に都して

 日本列島の大半を統治していた政権名であり、

 今の日本と大差ない国名だと思い込んでいた。

 しかし『倭人章』は次のように教えている。
                                     
 1 倭人   東の倭種と、北は狗邪韓国から

        南は侏儒(しゅじゅ)、裸国・黒歯国までの地域に住む人種名。

 2 倭    本来は仏教からきた卑弥呼政権だけの名だが、

        倭人居住地域の総称として使う略称。

 3 倭国   卑弥呼を女王に共立して団結していた小国連邦の全体を呼ぶ

        対外用の正式国名。

 4 女王国  連邦の女王が直接治めている所領国家群の全域。

        卑弥呼と壹與とで時代差がある。

 5 邪馬壹国 壹與即位時だけの女王国の首都名。

        今の市町村ていどの地方自治体サイズ。

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2012年7月28日土曜日

決定的な壹與軍の上陸地



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:30頁

 《決定的な壹與軍の上陸地
 「決定的な壹與軍の上陸地

 最後に、屋久島から海を渡った壹與らの勢力が、

 鹿児島本土のどこへ上陸したかという記録についてお話ししておこう。

 私(加治木義博)の著書ですでにご存じの

 『大隅正八幡の縁起』には壹與がオオヒルメとして記録されているが、

 彼女は「八幡」という男の子を連れて南の島から海を渡って来た。

 その船がついたところを「八幡崎」というとある。

 在来の説ではこの八幡をすべて「ハチマン」と読んでいるが、

 壹與は邪馬の女王だから、

 八幡は「ヤマン」への当て字なのだ。

 八幡様とは「ヤマン皇子=シバの皇子」という鹿児島語でなければならない。

 すると上陸点の八幡崎も「ヤマン崎」と呼ばれていたはずだ。

 薩摩半島の最南端は揖宿(いぶすき)郡山川町の長崎鼻(ばな)である。

 この町名は「ヤマガー」という発音だからヤマンと比較すると「ン」と「ガ」で、

 これはどちらも助詞の「の」に当たる。

 もとはヤマンだったが、のちに人為的に「ヤマガ」に変えられ、

 山川という当て字が使われて一層、原形がわからなくされたようにみえる。

 これはヤマンがすでに8世紀の発音で、

 それをさらにハチマンと読ませることや、

 高氏を意味するコーチを「川内」と当て字した上に、

 さらにセンダイと発音させた

 平城・平安時代の、

 建国史実抹殺政策が、

 殊に鹿児島県で深刻な事実と思い合わせると、

 屋久島と最短距離にある山川町以上に決定的な上陸地はない。

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2012年7月27日金曜日

沖縄語にも多くの方言がある



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:29頁

 《沖縄語にも多くの方言がある
 「沖縄語にも多くの方言がある

 2つの「邪」の漢魏音の内、

 どちらが使われていたかは、

 後世の発音変化でわかる。

 もとの発音がヂォだったのならヨマトになる。

 シンドゥ教徒がヤマトと呼ばれたことは、

 邪馬はヂォマでなく「ヂャマ」だった証拠だ。

 沖縄語はオの発音を嫌うからヂォマと発音するはずがない。

 これは逆にみればヤマトたちは、

 沖縄出身だったという証拠でもある。

 しかしトは母音 O があって沖縄語形ではない。

 沖縄の人たちは鹿児島人を「ヤマトンチュ-」と呼ぶ、

 これはヤマトという名詞が鹿児島で生まれたという証拠である。

 それが7世紀の天智天皇以後、奈良に移動し、

 光仁天皇以後に日本と奈良の代名詞になったのである。

 も一つ注意がいるのは紳縄には

 オ音が絶対になかったと思いこんではいけないことだ。

 私(加治木義博)が従来、沖縄語と呼んで区別してきたのは、

 それ以外によい呼び名がないための、

 便宜上の処置であって、

 沖縄全域が単一言語圏だったというのではない。

 そこは世界中のさまざまな地域から、

 多様な文化をもった人々が移住してきた共和国だったのだから、

 共通語は沖縄語でも、

 それぞれの集団は独自の言葉をもっていた。

 細かく区分すれば島ごとに言葉が異なり、方言が存在する。

 そればかりでなく、沖縄本島の中でも地域独特の言葉が数多く聞かれる。

 それは標準語と方言が共存している今の日本の縮図だといっていいのである。

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2012年7月26日木曜日

奈良がヤマトになったのは8世紀



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:28頁

 《奈良がヤマトになったのは8世紀
 「奈良がヤマトになったのは8世紀

 しかしその孝謙女帝が重祚(そ)した

 称徳女帝が弓削(ゆげ)道鏡事件で退位、

 光仁男帝のシンドゥ政権が固まって、

 大和は

 「邪馬徒=ヤマト=シバ教徒=シンドウ教徒」のものになってしまった。

 国も首都も「ウワの国、ウワの都(みやこ)」ではなくなって

 「ヤマトの国、ヤマトの都」と呼ばれるようになった。

 しかし一般人は漢字が読めなかったから、

 文字は元のままの大和で、読み方だけが変わって、

 大和を「ヤマト」と読んだ。

 それが今もなお踏襲され続けて、

 ヤマトとはどんなにしても読めない、

 発音とは全然関係のない大和という文字を、

 なぜヤマトと読むのか?、

 誰も説明できないまま、現在に至ったのである。

 そのことは『地名語源辞典』などを見るとよくわかる。

 それがシバ神の名に由来するなどとは考えることもできず、

 古来のコジつけ説を集めて並べてゴマカしているだけである。

 この「ヤマト」という発音が、

 在来の邪馬台国大和説や畿内説の「唯一の拠り所」なのだが、

 その肝心の奈良の大和がヤマトと呼ばれるようになったのは、

 どんなに早く見積もってみても、

 光仁天皇が即位した宝亀元年(770年)十月一日以後なのである。

 それより500年から600年以上も前の

 140~240年代の人である卑弥呼の時代に、

 奈良が「ヤマト」と呼ばれていたことなど「絶対にない」ことが、

 わからないようでは救いようがない。

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2012年7月25日水曜日

国号「大和」はウワでヤマトではない



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:27頁

 《国号「大和」はウワでヤマトではない
 「国号「大和」はウワでヤマトではない

 しかしそれから5世紀後の奈良には、

 確かに「ヤマト」と呼ばれた人たちがいた。

 その名はカリエン人が属する

 アーリヤ人の主神シバの別名がヤマだったからで、

 古く中近東に定着していた。

 シバの女王で有名な賃のスペルは Yaman で、

 イエーメンは英語訛りである。

 しかしシバの名は日本列島へはヤマそのままではなく、

 ヂャマという別名ではいっていたから、

 ヂャナ・ヂャマと発音していたので、

 謝名・邪馬と当て字された。

 ところが中国が隋唐時代に入ると

 邪の字は「ヤ」と発音されるようになる。

 隋唐人は同族で朝鮮半島を北上して行った鮮卑族であって、

 漢魏音と異なった発音で漢字を読んだ。

 そのため漢魏音では「 dzia =ヂャ」だった「邪」を

 隋唐人は「 jia =ヤ」と読んだので、

 唐の発音が正しい読み方だと信じた人々は、

 「邪馬人」を「ヤマト」と読むようになった。

 ヂャマ教徒は〔ヤマト=ヤマ徒=ヤマ人〕と呼ばれ、

 当時ウワと公称されていた仏教徒と、

 はっきり対比して区別されるようになったのである。

 仏教男帝の聖武天皇が造った奈良大仏の開眼供養に合わせて、

 仏教女帝の孝謙天皇が天平勝宝4年(752年)に、

 国名に「大和」という文字を採用したのは、

 当然、「自分たち=仏教徒ウワ」を誇り強調するためで、

 大は沖縄発音のウ、和はワへの当て字で、

 絶対にヤマトではなかったことはいうまでもない。

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2012年7月24日火曜日

二人の帯方郡使が聴いた邪馬の発音



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:26頁

 《二人の帯方郡使が聴いた邪馬の発音
 「二人の帯方郡使が聴いた邪馬の発音

 この奴・邪馬・狗奴はもう一つ、大切なことを教えてくれる。

 これまでみてきたとおり、

 「邪」の字の漢魏音は一つでなく二つあった。

 その理由はなにかということである。

 奴国は野間だから「 no ma 」で「 O  」がある。

 種子島は鹿児島県だから、沖縄語ではない。

 邪馬国も屋久島だから鹿児島県で、

 沖縄語ではないとすれば「 dzio ma」で「 O 」がある。

 すると「 O 」のない「 dzia ma 」は沖縄語を写したものだということに1なる。

 邪馬壹国は卑弥呼の死後に生まれた国だから、

 最初に来た帯方郡使の梯儁(ティシュン)は知らない。

 彼が知っていたのは旁国の邪馬国だけだったから、

 それは九州北部の伊都国あたりの発音で、

 「ヂオ マ」だったが、

 卑弥呼の死後まで滞在した2度めの帯方郡使・張政が聴いたのは

 沖縄の与那原で即位した壹與を女王に戴く位宮軍が、

 卑弥呼政権を倒して建国した「邪馬壹」の発音で、

  O 音のない沖縄語「 dzia ma ier ヂャマ イエ」だったのである。

 これが当時の正しい発音で、

 それも一人でなく、時を隔ててやって来た二人の帯方郡使が、

 どちらも耳にした「邪馬」を、

 沖縄と鹿児島との発音差があったにもかかわらず、

 揃って同じ文字で表現している。

 それが「ヤマト」や「ヤマタイコク」と聞こえたのなら、

 いま復元しても、

 そう聞こえる文字を当て字していたはずで、

 絶対に邪馬や邪馬壹などと書くわけがない。

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2012年7月23日月曜日

奴国は種子島の中心地「野間」



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:25頁

 《奴国は種子島の中心地「野間」
 「奴国は種子島の中心地「野間」

 屋久島には、

 東北部にある宮の浦の、

 ちょうど反対側にあたる北西部に「永田」がある。

 田を国称であるラの訛り「ダ」だとみると、

 このナガタは「奴ガ国」とみられなくはない。

 しかし奴の発音は漢魏音 no 隋唐音 nuo 明清音 nu であって na ではない。

 旁国を記録した帯方郡使は、

 耳で聴いた発音を忠実に写す当て字を選んでいるから、

 奴の発音は漢魏音の、「 no =ノ」でなければならない。

 当時の鹿児島以南の国称が、多く「マ」であったことを考えると、

 奴国は「ノマ」と呼ばれた可能性が最も高い。

 すると種子島には中央部にぴったり「野間」という地名がある。

 現在、空港がある中種子町の中心部である。

 その西南には港をもった「島間」があって、

 ここも「斯馬国」と同名である。

 しかし旁国の最南端という奴国=野間より南にあるから、

 倭人章に書かれた斯馬国ではない。

 別の時代のものなのだ。

 では、

 その野間は屋久島の狗奴国より北にあるだろうか?。

 屋久島の北端は島間よりさらに南にある。

 屋久島全体が野間より南にあるから、

 狗奴国はもちろん、邪馬国まで含めても、

 奴国=野間の南にある。

 すると日本式数詞の「ナ・ヤ・コ・ト」は、

 この野間・邪古・十島で北から南に正確に配列されている。

 どこからみても、この「野間」以上に奴国に一致する地点はない。

 この「ナ」の数詞は、

 より古い奴国だった那覇と同じく沖縄発音なのである。

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2012年7月22日日曜日

疑問が残る奴国と狗奴国の位置



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:24頁

 《疑問が残る奴国と狗奴国の位置
 「疑問が残る奴国と狗奴国の位置

 本講義の主題である旁国の順序からいけば、

 邪馬国の次は躬臣国のはずなのに、

 旁国には入らない狗奴国と邪馬壹国の検討が先になってしまったが、

 そうした理由は、

 それでなければ主題の邪馬国の実態が理解できないからだということは、

 もうよくご理解戴げたと思う。

 学問は視野が狭くては過ちを犯しやすい。

 形式にとらわれ過ぎると肝心な自的を果たすことが犠牲になる。

 目次をみるといかにも整々と立派にみえる本も、

 読んでみると肝心の内容が稀薄なのは、

 そうした見掛けだけの学問でしかないからだ。

 少しでも関連があるなら、

 その場で検討したり説明したりする必要があるのである。

 陳寿の『魏書』の原典に書かれた旁国の順番どおりになどと、

 こだわり過ぎるのは真の学問ではない。

 狗奴国は旁国の最後に記載された奴国を基準にした視点で、

 「此 女王 境界 所 尽」、

 「ここが女王国の境界が尽きる所だ」と書いた後にすぐ

 「其 南 有 狗奴国」

 「その南に狗奴国がある」と説明している。

 これは邪馬国の南に狗奴国がある屋久島と一致しないようにみえる。
 
 この奴国とはどこにあったか、

 なぜ、その南に狗奴国があるというのか?。

 ここで発生した疑問を後回しにして、忘れてそのままにしたり、

 同じ説明をまた繰り返したりしなくていいように、

 これも原典の順番を無視して、

 奴国を先に検討してみよう。

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2012年7月21日土曜日

倭人は当然、漢字を使っていた



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:23頁

 《倭人は当然、漢字を使っていた
 「倭人は当然、漢字を使っていた

 そこで、

 この答はさらに重要な史実を立証したことになる。

 それはこれが卑弥呼政権当時の倭人が、

 「間違いなく漢字を使っていた」史実を証言しているからである。

 なぜなら、私たちは本講座で、

 すでに宮之浦・宮之城が、旁国中の「弥奴(ミヤノ)国」と

 その前身だったことを検討し納得している。

 これは当時、「宮之」を「ミヤノ」と

 読んでいた証拠だ。

 ところが今度はその同じ「宮之」を、

 「クノ」と読んでいた証拠をはっきりみてきたのだ。

 中国人が「狗奴」と当て字したことは、

 当時、間違いなく「クノ」という発音があったことを証明している。

 その「クノ」もまた「宮之」という同じ文字の発音で、

 同じ対象を指しているのだ。

 これは当時の倭人が現在の私たちのように一つの漢字を、

 すでに当て字用には漢魏音を、

 内容用には倭音(訓読)をと、

 二通りに読んでいた事実の動かない証拠なのだ。

 こんなことは、

 すでに長期にわたって漢字が使われていなければ、絶対にありえない。

 しかし倭人と中国の交流史を本当に知っていれば、

 3世紀の倭人が漢字を知っていたのは当然過ぎるくらい当然なことだったとわかる。

 弥生時代の遺跡から出土する大量の中国製の銅剣や銅矛、漢代以前の鏡などは、

 すくなからぬ数の旅行者や移住者が運んだものである。

 古代日本を、

 鎖国徳川時代の頭でしかみない在来の史学は、

 余りにも推理力に欠けている。

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2012年7月20日金曜日

位宮が垂仁天皇だった証拠



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:22頁

 《位宮が垂仁天皇だった証拠
 「位宮が垂仁天皇だった証拠

 卑弥呼政権を倒した邪馬壹国の最高宮は「伊支馬」だが、

 彼のフルネームは垂仁天皇の名として明記されている。

 活目はイキマで、沖縄発音ならイチマ。

 伊支馬はこの双方に合うし、伊久米は「イキュウ・メ」で、

 当時、高句麗山上王だった「位宮と目」の発音に合う。

 陳寿は『倭人章』のある『東夷』中の『高句麗章』で、

 「位宮は生まれてすぐ目が見えた。

  彼の祖父の宮もやはり生まれてすぐ目が見えたから、

  高句麗語で似ていることを「位」というので位宮と名付けた」と、

 位宮という名の命名の由来話を収録している。

 こうした由来話は多くは史実ではない。

 それは何か疑問がある場合、

 それを説明するのに資料がなければ、

 想像でコジつけたものなのだが、

 それでもコジつけるだけの根拠はある。

 この位宮と目の場合は、

 位宮と伊久は同じだが、

 それでは米は何だという疑問に答えるため、

 「米=メ」は目の、ことで、

 それは祖父が生まれてすぐ目が見えたのと似ているからだと説明した形になっている。

 この高句麗章の記事は日本の垂仁天皇の名乗りがもとになっている。

 それなしでは生まれなかった説話なのである。

 しかしそれよりも重要なのは、

 すべて「宮」の字を、

 キュウやクと漢音で読んでいるという動かない事実である。

 もし祖父の宮と位宮がミヤやイミヤと呼ばれていたのなら、

 弥耶とか位弥耶と書いたはずなのである。

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2012年7月19日木曜日

宮之浦、宮之城は狗奴浦、狗奴城



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:21頁

 《宮之浦、宮之城は狗奴浦、狗奴城
 「宮之浦、宮之城は狗奴浦、狗奴城

 位宮以前の高句麗王の名乗りをみると、

 その支配地は全て移動しているから、

 祖父の宮と位宮がともに宮之城にいたとするよりも、

 祖父・宮と位宮はそれぞれ別の領地にいたとみるのが妥当である。

 だとすると重要な問題が発生する。

 この二人の高句麗王の名を記録したのは中国人だから、

 その発音は漢魏音でなければならない。

 「宮」の漢魏音は kiung ・キュンだから、

 「ン」を助詞の「の」として使う

 鹿児島語では「之」に当たる。

 「宮之」は、

 このキュンという発音を正確に写した当て字だったのである。

 宮之浦は「キュン・浦」、

 宮之城は「キュン・城」だったのだが、

 以前お話ししたとおり

 鹿児島語は「キュ」といった拗音を嫌ってキュは「ク」としか発音しない。

 「宮之」は「クノ」になり、

 「狗奴」と全く同じ発音になる。

 宮は琉球の「球」の発音。

 狗は球磨の「球」の発音なのだ。

 この論理が正しいことは、

 壹與が軍をひきいて戦った記録である

 『古事記』の『神功皇后記』中に、

 敵のカゴサカ王が「歴木」に登っていて猪に殺されたという記事がある。

 この王の弟はオシクマ王で、

 兄がカゴ=薩摩半島、

 弟がオシ=大隅半島の王という名乗りになっている。

 歴木という名の木はないが、

 木偏に歴の「櫪」はクヌギのことで、

 「宮之城」は大隅発音でぴったりクヌギになる。

 カゴサカ王は宮之城で殺されたという記録なのである。

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2012年7月18日水曜日

シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:20頁

 《シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩
 「シバ派シンドゥ教徒の国・薩摩

 そして邪馬壹国が、

 邪馬国と壹国とを組み合わせて、肝心の狗奴国の名を使わないのも、

 そこに高天原という由緒ある都があったから、

 そこは本国として移動せず、

 占領した新領土は植民地とみて新たに邪馬壹国と命名した。

 こちらの邪馬は邪馬国が移動したという意味ではなく、

 「シバ派のシンドゥ教徒が支配する壹国(薩摩)」という

 意味の国名

 「邪馬の壹国」だったと読みとれる。

 だが邪馬国は拘奴国とちがって、女王に属していたのに、

 狗奴国と隣りあっていただけで反乱の先頭に立ったか?という疑問が残る。

 この疑問がさらに深く真相を教えてくれる。

 本講座では先に傍国の「弥奴(ミヤノ)国」が、

 屋久島を代表する山岳の「宮之浦岳」や

 上屋久町の首都だった「宮之浦」から出た国名で、

 候補地は薩摩郡の宮之城町だとお話しした。

 また私(加治木義博)の著書で、

 その付近が、古代高句麗の支配者の居住地で、

 歴代の高句麗王の諡号(贈り名)の大半が、

 宮之城を中心にした周辺の地名であることを説明しておいた。

 さらに高句麗の王には「宮」を名乗る王が二人いる。

 一人は卑弥呼と同時存在の山上王・位宮で、

 もう一人は彼の祖父・宮である。

 この二人の名は宮之浦や宮之城という、

 かつての国名と無関係ではありえない。

 宮という名乗りは支配する国の名そのものだからである。

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2012年7月17日火曜日

卑弥呼が残した仏教遺物



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:19頁

 《卑弥呼が残した仏教遺物
 「卑弥呼が残した仏教遺物

 いまも主婦を「オカミさん」、

 料亭などの女主人を「オカミ」と呼ぶことも、

 この「お上」の解釈が正しいことを証明する。

 日本では江戸時代前期まで遊女は尼が支配していたし、

 遊芸人は大隅一の宮=大隅八幡(鹿児島神宮)に所属して、

 市(いち)とか検校(けんぎょう)、座頭(ざとう)といった位を受けていた。

 それ以前には鎌倉時代の義経の愛人・

 静(しずか)御前に代表される「歩き巫女(みこ)」があり、

 その末裔として今なお青森・恐れ山のイチコなどがいる。

 これらは全て原始仏教系の遺物で神道とは関係がない。

 八幡も「大菩薩」という仏教名で呼ばれる。

 このように卑弥呼の鬼道が仏教だったことは、

 証拠が多数現存していて疑問の余地はない。

 繰り返していうと、

 彼女がシバを崇拝することは絶対にない。

 天照大神と呼ばれても内容は正反対だったのである。

 むろん彼女がシバ国を意味する「邪馬」国に居たり、

 それを含む邪馬壹国などという国名をつけたり、

 名乗ったりすることは絶対にない。

 仮に邪馬壹国が間違いで、

 邪馬臺国が正しかったとしても、

 また邪馬臺が仮にヤマトと読めたとしても、

 卑弥呼はそんな国には絶対に住まなかったことは、

 誰にでもわかることである。

 上屋久の邪馬国は、

 やはり狗奴国の分身で、宗教上では一体の国だった。

 屋久島の邪馬国と狗奴国は、

 国名は2つに分かれていても実体はほとんど同じだったのだ。

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2012年7月16日月曜日

天照大神の3種の変貌



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録13:18頁

 《天照大神の3種の変貌
 「天照大神の3種の変貌

 天照大神という文字の意味は、

 この太陽神・シバに最もよく一致する。

 シバは男性神とされる肉体のない仮想の存在だから、

 実際に君臨していた女性の天照大神は

 このシバ神祭祀の最高位にいた主祭者をさす職名で、

 シンドゥの教義を参考にすると、

 「天照大神のお后(きさき)」といったものが、

 省略され同一視されたとみるのが妥当で、すでに定義化している。

 また天照大神という漢字は沖縄語化すると

 「チンジョー・ウガン」と読める。

 チシジョーはシンドゥの沖縄発音に一致し、

 ウガンは沖縄発音で「拝み」という意味で、

 職業宗教家を「ウガン」と呼ぶから、

 神道の拝み屋という代名詞になる。

 さらに天照大神は「アマデラスノ・オカミ」とも読める。

 これは「尼寺主・お上」と当て字してみると、

 女性僧だった卑弥呼はまさしく尼寺の庵主であり、

 かつ国の支配者として「お上(かみ)」と呼ばれていたともとれる。

 ではこのうちのどれが本物なのか?。

 こんなに都合よく3種の意味に合うのは、

 ウガンとかアマとかテラとかオカミといった言葉がそれ以前からあったのではなく、

 天照大神という漢字が先にあって、

 それから「拝み・尼・寺・お上」といった

 日本語の名詞が生まれたからなのだ。

 この答は3つとも正しいが、

 その語源を求めると『日本書紀』が光華明彩と形容しているから、

 光り輝く頭髪=「天を照らす御髪(ウガン)の持ち主」が語源として唯一つ残る。

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