2015年8月20日木曜日

筑紫と奴国


 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 ≪アズミ族の正体≫筑紫と奴国

 ◎「和名類聚抄」筑前国糟屋郡 阿曇郷・志珂郷

   志珂郷 福岡市東区志賀島

   阿曇郷 福岡市東区和白辺り(一般的:これまでの比定地) 

  阿曇「アズミ」 eš-ma₂ 〔家(屋)-船〕:屋船

 ◎奴国(福岡県福岡市東区・博多区)

   奴「ナ」(Sk.) nau,nāva 「船」

      (Grk.) ναυσ(naus) 「船」  νησ(nhs):ναυσの複数
 
   ※阿曇(eš-ma₂)族がこの地域にいたことにより、

    後から渡来したインド商人たちが、

    ここを「奴(船)」と呼ぶようになったもの。

   「後漢書」巻一下 光武帝紀(建武中元)二年正月(紀元57年)

    東夷倭奴國王遣使奉献。

    [一]倭在大帯方東南大海中、依山島為國

   ○「漢委奴国王」金印

 ◎筑紫「ツクシ」「チクシ」

  「筑後國風土記」逸文 筑後國號

  筑後の國の風土記に云はく、

  筑後の國は、本、筑前の国と合せて一つの國たりき。
 
  昔、此の両の國の間の山に険しく狭き坂ありて、

  往来の人、駕れる鞍韉(したくら)を摩り盡(つく)されき。

  土人、鞍韉(したくら)盡(つく)しの坂と曰ひき。

  三(つぎ)に云はく、

  昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、

  往来の人、半は生き、半は死にき。

  其の数極く多なりき。

  因りて人の命盡の神と曰ひき。

  時に、筑紫君・肥君等占へて、

  筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を

  祝と為して祭らしめき。

  爾より以降、路行く人、神に害はれず。

  是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。

  四(つぎ)に云はく、其の死にし者を葬らむ為に、

  此の山の木を伐りて、棺輿(ひとき)を造作りき。

  玆(こ)れに因りて山の木盡(つく)さむとしき。

  因りて筑紫の國と曰ひき。

  後に両の國に分ちて、前と後と為す。
   
  ※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが
 
    判明する。

   但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。

  後に両の國に分ちて、前と後と為す。
   
  ※この逸文に依りて「つくし」が原初的地名であったことが

    判明する。

   但し、その地名由来のいずれも本当とは考えられない。

 筑紫「ツクシ」

  (阿曇語/シュメル語)

   tuk-ši 〔布‐光る〕「光る市」:"絹布"を表わす。

   あるいは     

   tug-ši 〔織物‐光る〕「光る織物」:"絹織物"を表わす。

  筑紫(福岡県筑紫野市の地区名) 筑紫宮が鎮座する。

   「延喜式」神名帳 筑前國御笠郡 筑紫神社:名神大 

   「チクシ」 

   「全国神社名鑑」筑紫(ちくし)神社


    筑紫野市原田 祭神:白日別尊・田村麿・五十猛尊・

    玉依姫尊

    "九州を筑紫という称は白日別命の神号より起った」。


    城山(筑紫野市筑紫にある山名)

     筑紫神社はこの山にかってはあったと伝えられる。

    「シロ」(阿曇語) sir₄ = ši 「光」、城山は「光る山の語義」

    古賀(筑紫野市、城山のある筑紫の北方すぐの地区名。

      古賀、上古賀に現在分かれている)

  「コカ」・「コガ」(阿尼語・倭人語)

          g?‐kh? 〔林‐白〕:〔白い林〕

   ※「光る山」「白い林」 は蠶が桑の木(林)に繭を作り、

    その桑林が白く輝いてみえる様をいったもので、

    この地方で倭人による養蚕が行われていたことを

    示している。

    古代においては桑の木に繭を作らせ

    それを集めていたものとみられる。

    「エリュウトウ海航海記」にそのような表現がみられる。

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