2012年6月25日月曜日

地名分布の理由と時期に注意



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録12:22頁

 《地名分布の理由と時期に注意
 「地名分布の理由と時期に注意

 それは先にお話しした薩末(さつま)比売の乱のあと、

 朝廷が和銅7年(713)に大隅の国を置き、

 翌 和銅7年に

 「隼人は昏荒(こんこう)野心(心が暗く荒く野蛮)、未だ憲法を習わず。

  よって豊前の民二百戸を移して勧導(指導)lさせる」

 と勅命して移民を送りこんだ記録があるからだ。

 『倭名類聚鈔』当時の大隅国には「桑原郡」があったが、

 そこに豊国郷と大分郷があり、

 その隣りの囎唹郡に方後郷があるのは、

 この8世紀の移民によるものだから、

 もちろん3世紀にはこの3つの地名は、この付近にはなかった。

 発音に気をとられて早呑み込みすると、

 大変な過ちを犯してしまうことが、よくおわかり戴けたと思う。

 だが平城京政府がそこまで対策に悩んだのには理由があった。

 そのあたりは広大な襲の国の後で、かつての首府である。

 しかも平城京で支配権をふるっている連中は熊襲の出身者で、

 もとをただせば同じ一族であり同輩である。

 それが辺境に取り残されたばかりに、

 威張りかえった奴等に見くだされ、

 高い税を取り立てられるのは我慢ができない。

 その結果は6年後の養老4年に蜂起して、

 大隅国守の陽侯史麻呂(ヤコのフビトマロ)が

 殺害された大反乱に発展してしまった。

 こうしたことを視野に入れると、

 蘇奴は旁国中でも大国で、

 あまり遠絶していず、

 重要な首都・隼人にほとんど隣接していたことがわかると思う。

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