2013年3月26日火曜日
4種類以上の稲が拓(ひら)いた古代日本の稲作文化
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録21:31頁
《4種類以上の稲が拓(ひら)いた古代日本の稲作文化》
「4種類以上の稲が拓(ひら)いた古代日本の稲作文化」
これで日本列島には
「3000年以上昔に、中国の殷帝国のものと共通の、イネと呼ぶ陸稲があった。
縄文遺跡から出る超古代米はこれである」ことがわかった。
次いで時期は不明だが
「クメール人移住者が小粒の米の取れる水稲をもって来て、
久米島を本拠にして定住し、その後、コメが沖縄から本土まで広まった」。
「縄文晩期にはソナカとウッタラが率いる仏教宣布団が渡来、
ソナカは南九州から熱帯ヤポニカ栽培を広め、
ウッタラは本州を東進して寒さに強い水稲を弥生前期に弘前まで広めた」
こともわかった。
それはざっと大別しても4種類の稲が、
約1000年の間に日本列島に運ばれて来て、
いずれも立派に栽培にされたことが明瞭にわかる。
その種類も殷~稲敷の米は寒地型陸稲。
久米島の米は小粒の、南九州の米は大粒の、いずれも熱帯ヤポニカ水稲で、
弘前の弥生前期水田のものは、
マガダ以北産の寒さに強い温帯ヤポニカ水稲だったとわかる。
「縄文晩期の北部九州の稲作遺跡は日本で最初の稲作文化だ」
という在来の説は、
実に恥ずかしく情けない虚説を発表したものである。
我が国の「稲作文化」は、
3000年以上昔の殷代以前から立派にあったのであり、
北部九州のそれは、はるか後世に南九州に渡来した稲の、
そのまた移動後のものの一部に過ぎず、
中国から朝鮮経由で来たのでもない。
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